安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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帰省中-5「なべかつ」の正倉院探訪
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( 2015年 11月 21日 土曜日)


●なべかつ
奈良市は南の「奈良まち」と北の「きたまち」に分けられる。奈良市旧鍋屋町交番と奈良きたまちの会の略称を「なべかつ」と呼んで、長らく放置されていた鍋屋町の交番所を有志が結成したいわば歴史の会である。

なべかつは「奈良まち」という南の旧市街に対抗して、北まちの観光と観光案内所として様々な企画を行っており、史跡を巡るミニツアーなどもその一つ。ちょうど奈良国立博物館では正倉院展が開かれていて、正倉院も一般の見学、といっても正面離れたところから見るだけですが、「正倉院展と聖武天皇ゆかりの地を歩く〜正倉院探訪という企画があったので参加した。

●ミニ講義
まず「なべかつ」の斜め向かいにある奈良女子大学の教室でミニ講義(30分)があり、テキストとスライドで説明がある。あいにくの小雨でしたが、60数人が集まり、ま、退職者が多く、若い女性は奈良女の学生である。三班に分かれて出発。その前に奈良女子大は江戸時代に奈良奉行があった跡地にあるわけで、ここで、土塁の後、木牢、お白州の場所など、興味深い実地説明があった。

しかし奈良女の正門とその正面奥に立つ講堂(現 記念館)は文化財として残されているが、両翼にあった同じスタイルの2階建て校舎は鉄筋に変わっていた。その他開校時のまま残っているのは懐かしい東正面横の門番の建物と、南門の門番詰所だけとなった。この門番詰所と元の鍋屋町交番は同じスタイル、同じ緑ペンキで塗られており、小学低学年の時は毎日通り道で、懐かしい。

女子大の正門に面して東側はずらりと与力、同心の屋宅が立ち並び、与力は馬持ちで10人扶持くらいの石高があり、代々世襲制であった。同心はその場その場の雇いであり、馬を持てない、かなりの身分差別があった、と聞いてウンよくわかる。懇切な一般向き説明があった。なんでも本日の講師は「なべかつ」の物知り会員で、正倉院を調べ尽くしているアマチュアらしい。だからこういう散策ガイドにはもってこいの退職元気おじさんである。

●明鏡館
正門を出てまず聖武天皇陵に向かう。歩きながら、この先に「明鏡館」があったのですかと、講師に問うと、遮るように「これから説明するところです」と、失礼しました。今は暗渠になっている東西道路を隔てて民家の集合地を指し、「ここが、与力同心の子弟の高額所であった「明鏡館」で川路聖謨が奈良町市民にも門戸を開放しました」との説明、それは知っているが、この明鏡館の一角にあった松の木が民家の庭に今も残っていたとは初耳だった。塀越しに見えるが、この民家が洒落たバー、和食の家になっていた。後日、ここの2階和室で松を見る。なるほどすごく太い幹だが、狭い庭のため太い横枝だはすべて取り払われれ、高さも切られていて上手に剪定してあるが、やや痛々しい感じがした。

●今も残る与力屋敷
聖武天皇陵、多聞城の石垣に立ち寄っていくのであるが、参道から古い土塀と多宝塔や石灯籠が見える。奉行所前に入りきれなかった与力らはこの多聞町に屋敷を構えていた。その一軒が今も大切に保存され、もちろん多聞町側から正面を見ることができる。この多聞町は奈良で一番犯罪の少ない一角と初めて聞いた。ま、警察の偉いさん達が屋敷を構えていた歴史があるから、畏れ多いのでしょうか、今も犯罪がないという面白い話を伺う。

長ったらしく書いてきて、正倉院は次に回します故、相すみません、






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