●猿が街中に出没した頃
古老の話に、春日神社のあたりは猿が多く人間には迷惑だが、春日猿といって広い境内から春日原始林に住んでいて、手出しするのは憚られた。昭和の始めごろは登大路の民家にはいってワルサをした。聞いた話だが、ある時、大正か昭和の初め頃の奈良公園は相当数のサルがいて、登大路−水門にかけてあった木本源吉氏(奈良実業界の先駆者、富豪)の大邸宅にサルがたびたび入り込み、飼い犬のシェパードに追っかけられていた。しかし、シェパ−ドが鎖につながれている時はサルどものやり放題、台所に侵入して食べ物を持ち去るやらしたという。
●閑話休題
話は飛ぶが、この木本さん宅の二人の美人姉妹に、日吉館の若い常連学徒、研究者が片思いに見初め、女学校から帰宅の頃を見計らって、木本邸の門前をウロウロしていたのでした。あるときそんな美人姉妹の噂をしていると、酔いつぶれて横で寝ていた上司海雲さんがムックリ起き上がり、えらい剣幕で「お前はオレの恋がたきや」と絡んできた。上司さんが郡山高校へ通っていたころ、ひとめ見たさに帰り道に木本邸に回り道してという。
もうひとつ、木本邸で下男として仕えていた勤勉誠実な松太郎さんが主人の源吉氏から褒美に登り大路に面した持ち家をいただいた。木本さんは奈良のそこら中に土地や借家を持っていて、そのひとつを「店でも出して独立せよ」と真面目な松太郎さんに与えたのです。イイ話ですね。それで松太郎さんは草履取りから太閤さまになった気分でおれは藤吉郎・日吉丸だと、「日吉館」の屋号で大正3年に下宿業を始めたのです。で息子のお嫁さんが「日吉館」を切り盛りした女将・キヨノさんというわけ。言い古された旧聞で失礼いたしました。
また、奈良公園の公会堂は後ろの庭園が森林になっているので、天井裏がサルどものす窟になっていて、公園課では追い立てるのに苦労した。商品陳列所(現・仏教美術センター)の屋根瓦をなぜかサルどもが好んで剥がす。被害甚大となり、サル退治が本格化、昭和初期にはもう奈良公園から姿を消した。
それがしは公園でサルを見かけた記憶はないが、小学校の遠足で奥山のウグイスの滝へ行った時、頭上の木々をキーキーとわめいて飛び回るサルが印象深い。
●動物を甘やかせるな
サルは暴力的に追わなければつけあがって歯止めがききません。まだオズオズとワルさをしている頃に退治してしまわないと猿害を防ぐのは難しい。宮島へ船で渡るとまず鹿の攻撃的おねだりに辟易し、ロープウェイで山上に登ればサルのボッタクリを防ぐのに必死である。いまではサルが人間と接触しないように観光客は網をはった通路を歩くことになる。主従転倒ではないか、まったく。いまならの各地でタヌキと猪が農作物を荒らしている。十年ばかり前、夜の若草山でタヌキを見た。そばに鹿がいて、タヌキと鹿は互いに無視しあって共生しているときいた。放っとけばツケ上がって増えるばかりだ。鹿も多すぎる。野良猫も多い。市当局はなにを遠慮しているのか。
●奈良公園にあった動物檻と遊具
南大門の手前を右/東に春日野球場があった方へ折れたところに春日山に生息する動物、キツネ、タヌキとニホンザルの檻があり、よく見に行った。キツネもタヌキも絵本にあるのと違って小さくて臭かったな。たしか昭和30年中頃まであったとおもう。檻の南側、芝生のないところに遊具が置かれていた。ブランコ、滑り台、真ん中の鉄柱から吊った輪を回して飛び乗る遊具などがありました。ブランコは幼稚園や小学校にあるものより大きく、鉄の冷たい鎖を握って怖いくらいに大きくスウィングができた。これが楽しみで放課後走って遊びに行ったものです。