安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話・奈良晒しからメリヤスへ
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( 2015年 10月 16日
曜日)


●パリで日本食のパイオニアはメリヤス町工場の嫡子
中学の一級先輩にわかくしてフランスに渡り、豆腐がないというので、帰国して豆腐屋で製法を修行して再びフランスへ、パリで豆腐を作って売り出し成功した。この人欧州最初のラーメン屋を開店し、ラーメンチェーンへ事業を拡大、いっぱしの実業家になられた。奈良商業で簿記とか商法の知識が役立ったといえ、開店にあたり、豆腐好きの弁護士と知り合ったのが幸運だったという。ぼそぼそ話す小柄なひとだったが鼻息は荒かった。

この人わが中学からは珍しく奈良商業高校へ行ったのですが、なんでも家業の郡山のメリヤス工場を継ぐためと聞いている。中学時代に兄と同級だったので高校時代からしばしば我が家に出没していたと思ったら音沙汰がなくなった。新聞やTVに取り上げられてから仲間内で驚きとともに知るにおよび、それはトランジスタラジオでナショナルや日立や東芝が海外進出の緒についたばかりの1960年中頃であった。

●地場産業としての奈良メリヤス
郡山のメリヤス会社の息子であった上記エピローグの先輩・山中幹男氏を追想し、奈良のメリヤス産業を考えてみたい。製造業者は奈良盆地各地の市、主に高田と桜井に分散し、市内にないため、奈良町で話題になることは少ないが、歴史的には「奈良晒し」や「大和絣」に源流がある。奈良晒しは麻の高級織物で、庶民には高嶺の花であったが、顧客に南都七大寺の僧侶や春日神官はいた。麻の原料は新潟などから仕入れ、主に農家の副業とし編まれたのを集めて加工する晒し屋が繁盛した。江戸時代奈良の豪商は「奈良晒し」と「製墨」である。中世の奈良は商業インフラが整った大都市として機能し、観光産業など皆無であった。

人力に頼る奈良晒しは時代に遅れ衰退するが、代わりに農家の副業として木綿の機織りで再起、「やまと絣り」
で一時は持ち直したが、やっぱり時代の変化についていけなかったのか、粗悪品で絣模様が古臭いと悪評でダメになった。で、木綿メリヤス織りを、今度は農家の副業ではなく零細業者によって始められた。三度目の正直があたって、綿シャツや靴下が根をおろし、地場産業として今も続いている。原糸は奈良晒しの昔から他所から持ち込むので、ナイロンができれば早速ナイロン靴下を作って時代に即応できた。

ただ、商品は販売会社の商標で、また下請け製造も多いため、奈良メリヤスのブランド靴下があるのかないのか、拙子は知らない。若い頃は金がない。親のツケが効く店で、背広やカッターシャツを買った。カッターシャツはたいてい「大和シャツ」という商品名で、あれは今思うと上物でした。

地場産業や交通そのはかこいう郷土地誌については、わが中学時代の校長堀井甚一郎先生が第一人者である。わが中学の校長は学大の教授が数年おきに交代して付中に赴任する習わしであった。






Pnorama Box制作委員会


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