安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話・名僧の肖像-4
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( 2015年 10月 7日
曜日)


名僧の肖像 第4回は京都の話ですが、諸国を布教した旅の聖(ひじり)空也上人です。

●阿弥陀聖(ひじり)空也上人
乞食僧の風体で口から仏を吹き出すこの像をはじめて写真で見たときには、それがしはすでに社会人だったが、心底ビックリした。「南無阿弥陀仏」の六字にちなんで、念仏を唱える口から小さな阿弥陀仏が六躰、吹き出るように並んでいる。見慣れてしまうと何でもない立像だが、奇想天外な着眼ではないか。
空也上人は平安中期から後期にかけて、念仏行者として諸国を遍歴、この姿を鎌倉期になって運慶の四男 泰勝が彫った。仏を吹き出すアイデアは誰が考え出したのか、そういう研究もあるが拙子はあいにく知らない。

●独特な諸国 行脚の出で立ち
胸に鉄製の金鼓(かね)を剥き出しの首から肩にまわして下げ、右手にT字上の鉦叩きを持っている。左手の杖の上部に鹿の角が片方まるごとついていて、鹿皮のズタブクロ両肩に背負って、腹のあたりで結んでいる。草鞋履きである。この布教の出で立ちから推して、かなり自己顕示の強い性格ではなかったかとおもう。穿った見方をすれば、上人が口に含んだ小仏をポッポと出すマジックをやったのでは・・・妄想ですかな。

よく似た空也上人の彫像が諸国にあるが、どれも同じ出で立ちでありながら、ずいぶん気色の悪いご面相で一見の価値なし。ですが、一見して比較すると運慶の指導を受けた泰勝が彫った写真の空也上人像がいかに優れた作品かよくわかる。


空也上人像(重文)、京都六波羅蜜寺  語る口から六躰の阿弥陀像が顕れる

●聖たちの背景
平安の頃になると、奈良の寺院はどうしても寂れ、新しい平安京都に貴族の建てた寺院が生まれた。また天台叡山、や真言高野山など人里離れた 高い山中に新しい中国伝来の仏教を研鑽する大規模寺院が興隆した。一方で、法然のように山を降りて民衆に直接宣教する僧、高野聖や一遍聖上人、法明上人といったいわば異端児が現れる。 そして鎌倉機の親鸞聖人で開花する。

さて、空也上人について、拙子の見方はいちおう尾張国分寺で出家しているが、私度僧つまり遊業の乞食坊主と同じ出発点であったとおもう。民衆の人気と帰依する者を倍々に獲得したのは、道路、橋をつくるといった社会事業である。 難しい仏教教理を学んだわけでもない空也上人は、ナムアミダブツの念仏を唱えるだけで浄土に行けると、貴賎を問わずに説いて廻った。民衆に直接仏を説く僧がいなかった時代、これが成功しないわけがない。

空也上人は成功してから比叡山で受戒を受け、号を「光勝」というが、ただの肩書きだから天台宗と関係なくどちらかというと奈良仏教に近く、下界に戻り、衆生のなかへ。とはいえ公達らとの付き合いが深まった。

●六波羅蜜寺
京都東山の麓、六波羅探題があっところで、平家一門の邸宅が並んでいた。六波羅蜜寺はもと西光寺と呼ばれ、空也上人はここを根拠にして活躍した。その故か、この寺の開山は平清盛(墓はここ)でなくて空也上人となっている。一度この寺の前をぶらついたことがある。正面は中国のような石の門柱に 鉄柵、刻まれた寺名が篆書で台湾の寺かと見紛うばかりのお寺である。本堂横にある十一面観音の銅像はレプリカで本物の国宝木造本尊は本堂にあり見られませんが、空也上人作となっている。

上人が開基した他の寺々にも上人作の仏像があり、どれも素人ばなれしている。悪いが拙子には信じがたい。
無名の仏師では有り難みがウスイので、史上エライ人の作にするのは寺の悪習といえる。弘法太子作なんてのは奈良以外でもザラにありますね。

なお六波羅蜜寺には平清盛写経の坐像や、逸品が多く寺の宝物館はさながら美術館のようと、それがしは入ったことないがそのように言われております。






Pnorama Box制作委員会


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