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奈良零れ百話・名僧の肖像-3
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( 2015年 10月 5日 月曜日)
「東大寺の開基、再興、復興に尽くした名僧たちの肖」第3回です。 ●治承4年につづき永禄10年またも大仏炎上 奈良の多聞城にいた松永久秀・弾正と三好三人衆(長逸、政康、友通)が共同で足利義輝将軍を暗殺し、その後仲違いして、 松永は三人衆と通じていた筒井順慶を攻め、松永は三好連合軍と一緒になって近畿のあちこちで筒井・三人チームと戦うのですが、最後は東大寺周辺で半年も市街戦を繰り広げた……というような歴史話は本稿のテーマではないが、多聞城に攻め込まれる事態になって松永は敵の陣地になりそうな近くの般若寺や東大寺の塔頭や御堂を次々に焼き払っている。 ●松永弾正が放火したのか、三好三人衆側の不慮の失火か 治承4年平重衡による大仏炎上は重源上人が再興した。永禄10年(1567)松永弾正が (結果的には)焼け落ちた大仏の頭部と大仏殿は誰が建て直すのか。大仏の頭部は山田道安が 銅板を張り合わせ て、応急処置した 。雨露をしのぐだけの板張りの仮堂は数年後の 台風にひとたまりもなく吹き飛んでからは、野ざらしの大仏さんは銅板合わせのお顔で 80数年間、 露座の大身を日照り雨雪に さらしていたのである。 永禄の大仏炎上にも、重源上人のような人物が顕れて再興できるだろうか。東大寺と関係うすかった徳川幕府は再興に無関心であった。 ●東大寺中興開山、公慶上人 さて、開眼供養の大人気に、江戸幕府も腰をあげたので資金の都合がついた。といっても少し足りなくて大仏殿は3分の2に縮小されたのであるが、上人は大仏殿の完成を待たずに58歳で病没した。 木造坐像は、座る両足の衣紋が形式的でイマイチですが、ご面相はスゴイ。頭のかたちは実によく観察されている。 |
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