安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話・名僧の肖像-2
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( 2015年 10月 3日
曜日)


「東大寺の開基、再興、復興に尽くした名僧たちの肖」第2回です。

●社会事業家のさきがけ、行基菩薩
大仏建立に貢献した「行儀大僧正」です。仏教がまだ官の制約にあった時代、民衆に布教し、ため池や橋をかけるなどの治水事業を多く手がけている土建技術者でもあありました。土木の大家としては『空海』より先、法然や親鸞に先んじて衆生救済に奔走した。貧者の家『布施屋』を各地に作った先駆者でもある。しかしまあ、民衆の人気ではたいへんなもので朝廷も無視できなくて、本邦の位階『大僧正』を与えて東大寺建立の責任者に指名され、いつの頃からか「行基菩薩」とよばれるようになった。

行基像は鎌倉時代から現代までいろいろあり、近鉄奈良駅前の噴水中央に 立つブロンズ像(もとの陶製がイタズラで毀れたため)が行基広場とよばれ待ち合わせ場所によい。

休題:いつぞや家内とここで待ち合わせた時、先に来ていた家内がベンチに座っていたところ、退職ヒマ人に話しかけられ話が弾んだ。そこへ拙子が来たのであるが遠慮して話が一段落するまでよこで待っていたところ、家内が「主人です」と退職ヒマ人に紹介すると、老紳士はバツ悪そうにそそくさと退散された。遠慮しなくてもいいのにね。

坐像 は唐招提寺にある鎌倉時代の木造の木造が最も古く、奈良西大寺の喜光事寺(菅原寺)に複製がある。薬師寺にある木造は 江戸時代のもので健康優良児のようなたくましい姿。2013年に補修されみずみずしい彩色になった。

唐招提寺の行儀さんは、現代物にみられる慈愛と優しさに満ちた行脚老僧の様相ではなくて、厳しく高潔である。写真のように胸骨が浮き出ているもののよくフィットした体躯、80歳まで長生きされた。手にする如意棒の変形である長い茎柄の蓮華葉は何に使うのかそれがしには解りません。

 行基菩薩、唐招提寺         重源上人坐像、東大寺俊上堂

●肖像彫刻の頂点「重源上人坐像」
俊上堂に安置されている「重源上人坐像」(国宝)、肖像彫刻の白眉というべき傑作についてです。鶴首を突き出し。口をへの字に曲げて眼窩にウス目をあけて数珠繰りながら、睨んでいるのか、優しいい目なのわからず、こんな姿と対面したらドギマギして落ち着かない。ウス目で玉眼入りですから、木造といえ、前に立つものは蛇に睨まれたカエルのようにすくんでしまう。彩色はもとから地味で結構な色落ち具合、彩色補修など絶対禁物です。

この僧籍の重源さんは紀家の出身、名門ですね。宋にわたって密教をまなび、上人と呼ばれているところをみると野にあって活躍し、人望篤い人物であったことがわかる。東大寺の華厳宗ではないが、東大寺は八宗教兼学ですから、あんまりこまかいことは言わない。

●南都炎上と東大寺再建、大勧進に指名された重源
平重重衡によって大仏殿が焼けおち、東大寺の多くの伽藍が焼失した。興福寺の再建は藤原氏がバックにいるので、再建のプログラムは興福寺の関係者で支障なく進捗したのであるが、さて東大寺はとなると、誰に復興の重責を頼めるか、法然に白羽の矢がたち朝廷から懇願されたが断り、代わりに重源を推薦したという。翌年高野山にいた61歳の重源上人に 、朝廷から東大寺造営勧進職に指名された。大勧進すなわち東大寺の大仏および大仏殿の再建、東大寺伽藍の復興という、類をみない大役に就任したのである。

大勧進、つまり膨大な基金を集めることができるカリスマ的人物とみられていた。東大寺僧が束になっても、朝廷の威光をもってしても、大仏再建の資金もなければ、民衆に浄財を募る力もない。南都の学僧は実社会のこととなると無能のデクノボウみたいなもので、この重源上人を措いて他に人材はなかった。

実際、重源上人は61歳から諸国を勧進行に歩いたほか、源頼朝の支援を受け、建築や鋳造に携わる技術者集団を組織するオルガナイザーとして、20数年、未曾有の大事業を完成、86歳で遷化するまで東大寺復興に力をそそいだ。

●雲隠れした年もあった重源
重源は一度、一年ほど雲隠れしたことがあったと伝わる。居所がさっぱりわからず連絡が取れないと騒動になったが、
問題山済みの年月に、隠遁して英気を養うためであったと推測する。 重源のこういうフッキレた非凡な精神が だいすきであり、畏敬を覚える。拙氏は重源の内面を示す屈指のこの肖像を運慶作と信じてうたがわない。






Pnorama Box制作委員会


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