安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


-------- ----------------------------------
奈良零れ百話・鑑真坐像
------------------------------------------
( 2015年 9月 26日 土曜日)


●名僧のあばら骨
歴史上実在した名僧の肖像彫刻は、とても写実的でみなガリガりに痩せている。東大寺なら、鶴首を突き出した重源、興福寺なら釈迦の「十大弟子立像」(乾漆)が顔だけは若い弟子たちなのでふっくらしているが、僧衣をはだけあばら骨が浮き出たガリガリである。こうい骨と皮の老僧の諸像を一ページにまとめてみるのも一興だが、本日はわが国最初立体肖像である唐招提寺の「鑑真和上坐像」の3躰について述べる。

●修復前の鑑真坐像
ところが鑑真和上の坐像はそれほど痩せていない。遷化近いことを知った弟子たちが和上を偲び、生前の元気であった頃の容貌を表現して、この乾漆像を製作したのであろう。正確には中国伝来の脱活乾漆の手法で、いわば漆で固めた麻布のハリボテですから、時の経過とともに変形する。唐招提寺も何度か火災にあっていて、鑑真像が置かれていた開山堂は天保4年の夜火事で焼けてしまった。

こういう時、乾漆像はたいへん軽いので持ち出され無事だった。とはいえ穴があいたり、表面の胡粉、正確には木屑(こくそ)という漆に木粉・布粉などを混ぜたものをへらや指で塗り固めた胡粉のうえに、顔料で彩色するわけだが、これら顔料や胡粉があちこち剥がれていた。さらに悪いことに、 坐像右膝の衣を江戸時代に紙で補修していたのが、破れてはみ出している。(修復前の画像参照)
 

修復前の鑑真坐像 昭和9年、修復後の鑑真坐像  再現されたレプリカ、2010年

●変わり果てた修復後の鑑真さん
それ故、国宝に指定された当初は国宝台長に「紙製」と記載されていた。縁日で売っている「張子の寅」とおなじ作りと見られたようだ。さて、昭和9年に国宝である坐像を完全修復する運びになった。修復主任として采配したのは、当時は誰も文句を挟めない仏像彫刻の明珍恒夫氏である。明珍氏が像の底板をはずしたところ、ちゃんとした脱乾漆であると判明、明珍氏は後世の修理である紙の部分を全部剥がして、オリジナルに近づけようとされたのである。しかし顔料の塗と漆塗り職人が下手くそなのか、 これは木彫家・明珍氏の守備範囲外といえ、鑑真さんが黒ずんでしまった。損傷のない眼窩の凹んだ部分は昔の白っぽいままだから、太い眉と相まって丸メガネが反射しているようで人相がかわった。いやなご面相におなりに……。(修復後のカラー画像参照)

修復を心待ちしていた当時の北川長老は、一目してがっくり、変わり果てたお姿に生存中は厨子をあけさせなかったという。ま、しかしその後、奈良登大路の地裁(旧一乗院)新築に際し、建物を移築して鑑真さんを安置する御影堂ができました。修復後をすでに80年が過ぎて色合いも落ち着き、あるいは埃りのせいかもしれませんが、黒くなった顔に誰も文句をいわなくなりました。いや、それより御影堂宸殿の外廊下から立ったまま覗き込む年に3度の参観ではよく見えるわけがありません。

1977にモナリザと、ミロのヴィーナスが日本で展示されたお返しに、この鑑真和上像がパリに展示された。そんなニュース週刊誌を当地ベルゲンで読んだ記憶がある。

●成功した身代わりレプリカ
失敗した修復の代償もあろうかと勘ぐるのですが、2010年常設展示用のレプリカが10年がかりで作られた。現代の工学的技術を駆使した修復の匠エンジニアが完成した実寸レプリカはお見事です。衣紋の色模様まで読み取って再現、もちろん新品ですから古拙を望んでもはじまらい。しかし現代人にはこの方がハッキリしてよいとおもう。開山堂へ行けば、反射防止ガラス越しに明るくしまも律宗らしい座り方の鑑真さんがいつでも見られます。






Pnorama Box制作委員会


HOMEへ戻る