安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話・旅篭・對山楼
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( 2015年 9月 21日 月曜日


●京街道、奈良の玄関にあった旅館
明治奈良の一流旅館は、転害門横にあった對山楼である。江戸時代からあった旅篭(はたご)で、一流といっても設備は当時のことで厠と大きな五右衛門風呂である。泊まり客は豪華な顔ぶれが出揃っている。伊藤博文、山形有朋、大山巌、品川弥二郎、森有礼(ありのり)、品川弥二郎、岡倉覺三・天心、それに拙子が崇敬してやまない狩野芳崖もお見えになりました。
 
        

名前をあげたらキリがない。とにかく嫋々たる人物がこの宿、ま。ここしかなかったのであるが、山岡鉄舟が来た時は、宮内正五位山岡鉄舟が部下を数人連れでイバッてるのなんの、「俺様ように、特に一室たてて待っておれ」と通知である。

●あるじの角屋定七翁と山岡鉄舟
このころの主人は角屋定七翁は、いまはもういなくなった無欲正直な人である。ハイハイと六畳二間続きの離れを新築した。冬だったので、かべを火鉢で乾かすやら大変だったらしい。また突然「笠置山にのぼる」といい出して、定七翁は4里の道を案内し、山道では鉄舟さまをおぶって上った。言う方もまた申し出を受ける方もオトギの世界のようだ。

でもって鉄舟は宿代を払わない、著名人は一筆短冊をしたためたり、色紙を描いたり、書を揮毫して宿賃とする。しかし、離れを建てさせておいてですから、鉄斎は襖絵を数枚描いたうえ、銀時計を6個置いて行ったという。ま、この銀時計は政府の贈答用だから、懐はいたまない。襖絵はしばらくあったが、廃業久しい現在どうなっているのやら。額、掛け物、色紙などもごっそりあったが……。橋本雅邦の水墨が宿の書画帖のなかにあったそうで、21冊の宿帳は駆け出しのころの正岡子規、竹内栖鳳、三宅雪隠の自筆もある。

●宿名の由来
京街道に面し、東大寺に入ったところ、宏大な敷地、ウラは正倉院、東大寺境内につながり、若草山、春日高円(たかまど)の見渡せるが結構な眺めであった、とモノの本にしるされている。もとは亭主の苗字「かどや」が屋号であったが、明治のはじめ山岡鉄舟が「對山楼」にせよということでハイハイと改称した。やっぱりお伽の世界、マンガマンガという方が通じやすいかも。

そうだった、銀時計ですが貞七翁は興味ないとて、だれかれに上げてしまって気がつけば一個も残っていなかったという。定七翁は、明治のすくなかった修学旅行生もとめている。別に名士のご用聞きではない正直である貞七翁と学生と引率教授が京街道の途中、笠置のあたりから大雨にあい、ぐしょ濡れになって到着したとき、かいがいしく翁夫婦が肌着を着替えさすやら、着物をあてがったという。

フェノロサが土足のママ上がるので、おかみさんが白木綿で靴袋を縫ってはかせたという。その片方が長く残っていたが、これもなにもかも、二代目さんが大正八年に廃業するとき、どうなったんでしょう。のち再び開業されたが、昭和38年に完全廃業。いまは跡地に日本料理の「天平倶楽」がたっている。庭に子規の句碑があります。

国鉄が通じ、近鉄が通市内に通じると、京街道の転害門は通すぎて衰退した。旅行客は對山楼のあと、やはり江戸末期の創設になる「菊水楼」が名士をこぞって受け継ぎ、現在も老舗の超一流である。しかし。駆け出しの学者や芸術家をたすけた宿は「日吉館」であった。






Pnorama Box制作委員会


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