安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話・職人の店
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( 2015年 9月 15日 火曜日


奈良にあった職人の店について、年長者に確かめたいとおもうのだが、拙子の居所からは思うに委せず。うろ覚えのについて書いておきたい。

●金網を編む人
場所がまったく想い出せないが、率川神社のウラ辺りだったかな、若いお兄さんが金網、火鉢の上で餅やスルメを焼く金網から、大きな金網の箱を手作りしていた。固定した木組みを足で押さえ、両手で金属線を猛烈な早さで捩っていくのである。丸形や各型の金網が見る間に完成する、店先で通行人が見られるようにその職人技をみせていました。

●目立て屋
拙子がよく除いたノコギリの目立て屋さんは北半田の角にあった。ノコギリを万力で固定し、一目ごとにヤスリを両側からかける手作業である。研屋も兼ねていて、カンナの歯や庖丁なども研いでおられた。昭和20年代までは、大工職人は自分の使う大工道具を決して他人に使わせず、目立ても大方は職人気質の大工さんが自分で研いでいた。

だから、この目立て屋さんの顧客は一般の人が多かったようにおもう。明治・大正のノコギリは柄を竹ひごでキッチリ巻き込み、鉄の材料がまるで違う。目立てすれば一生使える強靭な鋼鉄でできていた。だから目立て屋さんとしてもやりがいがあったにちがいない。しかし、大量生産の安価なスチール製が出回り、切れなくなれば買い替える習慣になった。目立てや屋さんが消えたのはいつか、昭和22−23年の頃はもうなかったようにおもう。
いまノコギリと言えば電動ノコ、大工さんも手ノコはスーパーの使い捨てになった。

●竹屋
油留木町西側に長く生業としていたので,覚えている方も多い。「竹や」という建築資財としての竹を商っていたのは奈良でここが唯一であったとおもう。材木屋はいくつかあって、現在もあるが、竹屋が消滅したのはなぜだろう。油留木の竹屋さん宅は、外から中が丸見えの小さな家だが、向いの広い空地に各種の長い竹を横に積み重ねてあった。当時はどんな家であれ、新築する時の「足場」に竹を組んで、使い終わったら他の廃材と一緒に燃やしてしまった。だから需要はあったとおもうが、何度でも使えるスチール製の組み立て式足場ができてから、商売がなりたたなくなったのでしょうか、あの長い竹をひょいひょいと扱う名人はもういない。

●桶屋
記憶は定かでないが東城戸か、下御門であったろうか、この辺りは拙子の縄張りではなかったので何度も通った筋ではない。北へ向って行くと西側に桶屋があり、前の戸が開け放たれて木桶作りに励んでいた。締めるタガの素材は鋼の輪ッカもあるが、割いた竹を編んだのもあった。味噌たる、醤油たる、酒樽は木桶でなくては様にならぬ。

木桶は実際に使い出すと漏れたり、よくガタが来る。すると桶屋さんがタガを締め直したり一部交換して修繕するわけですが、一度修繕すると入れ物と馴染んで長持ちするという。

温泉宿ではいまも重い木桶でないと温泉旅行にきた気がしない。風呂屋でも木桶がいいのだが、これは大量生産でしょう、滅多に毀れない。

●その他
鍋釜を修理する鋳掛け屋さんがあったようにおもうが覗いた覚えがない。椿井のあたりに石工の店があり、道路に面して開け放たれた仕事場には、墓石等に文字を刻んでいる鉢巻きのおじさんや、丁稚みたいな人がいた。あれは土間か、仕事部屋は壁も天井も石の粉で真っ白である。夏など裸で眼鏡もかけず,マスクもしないで一日中石を砕き、削り、右手ののみを金槌で叩きながら文字を彫るのである。あれでは肺がもたない。立て込んだ民家の一件であり、音がやかましい。この店も早くになくなったか、引っ越しされたであろう。

いまは全て電気仕掛けの石造用具が揃っている。この件だけは昔の石工職人がなくなりよかったとおもう。(了)






Pnorama Box制作委員会


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