安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話・額塚 私観
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( 2015年 9月 8日 火曜日


奈良市に額塚がふたつ、興福寺と春日大社にある。

●額塚とはなんぞや
「塚」と名のつくものには、万人に役立った「一里塚や」石器時代のゴミ捨て場を「貝塚」と呼ぶような、からっと明るい印象のある「塚」は少数派で、たいていは怨霊を鎮め、厄祭を免れるために建てられた。その多くは悲劇の主人公を供養するため、民衆の側から自発的に石を置いて塚とした。塚はあってもそのいわれは伝説ですから、伝説が衰退したいまでは意味をなさなくなったのでわざわざ塚に挨拶する者もいなくなりました。

奈良市には「俊寛塚」(旧菩提町)、悲劇とはいえないが「剣塚」(東大寺辛国神社)、吉備の真備が唐で生ませた子の墓である「魚養塚」(なかいつか、十輪院)、が比較手に知られている。

現存しないが、山間部の水間町に「オサヨ塚」という、親の仇を尋ね歩いてここまで追ってきたオサヨという娘が返り討ちに果てた。あわれオサヨを葬った塚があったのですが、昭和中頃、県道30号線の改修工事でどこにいったか分らなくなった。ま、この塚は刻んだ文字もないただの一抱えぐらいの石ですから、いまでもその辺に転がっているかもしれない。いたいけない娘オサヨや哀れ。

さて、額塚のことですが、額を埋めた処なら何でもよく、奈良にある額塚は寺社の門に掲げられた額を埋めています。いずれも天平のむかしの話です。

●興福寺の額塚
三条通を上って、五十の塔の手前に「南大門跡」という二段になった芝地があり、薪能が行われる場所です。奈良まちを展望できるほどの良い場所なのですが、ここにかつて興福寺境内への入口となる南大門があった。門には「月輪山」という額がかかっていた。山というのは寺の境内を指し、「がつりんざんという」山号をつけていたのですが、拙子おもうにすぐ下の猿沢池は月をうつすことで知られている。宝蔵院流十文字槍は猿沢池に移る三日月にインスピレーションを得た胤裔が編み出したといわれる。夜になれば泥水の猿沢池にも月は映ったからなのです。天平の頃は清水ですからさやけに美しかったに違いない。

天平寶字八年五月のこと、門前の地面に大穴があき水が噴出、石垣が崩れるなど被害が出た。東西に坂になった地面に石垣で整地し、南大門を建てたわけだが、ここでも拙子思うに地下水が整地のため水路が変わった人災による水の噴出と陥没である。 
 
そこで占師(一説には僧の夢のお告げ)に占ってもらうと、「月輪は水に縁があるからして額を取りおろせばよい」との託宣。それで額を降ろして盛り土(茶臼山)し、その前に大石を立て、額塚と刻んだのである。以後法相宗本山・興福寺は山号を用いない。場所は南大門跡から南円堂への途中、不動堂横にある。

その後不思議や1300年程経た現在に至るまで陥没も出水もなくなった。私見をいえば、地下の水はけがよくなったのだからなんの不思議もない。

南大門跡に関する不都合なできごと、ここに四条県令が明治天皇のご真影を飾った遥拝所(ようはいしょ)建て、観光客に参拝をなかば強要したことや、大正期に平和倶楽部というビリヤードが西南の隅にあったことなど観光に不向きな事象は知られていない。ま、知る必要もないが。

●春日大社の額塚
春日大社の南門、ここで拝観料を払うのですが、この南門の前に作で囲った小さな石がある。小さすぎて何か分らず通り過ぎるて、これが額塚と知る人はすくない。まだ本殿をぐるっと回廊がとりまいていなかった頃、つまり南門がなかった頃はここに鳥居があった。

その鳥居に『正一位鹿鳴大明神』の額が掲げてありました。春日社は神鹿の由緒ですからたいへん結構な額ですね。ところが言い伝えによると宝亀3年(772年)落雷のため額が落ちた。天平時代はたしかに地震,落雷、暴風といった天災が多かったように見えるが、防災対策のない木造が多く被害が多く出たのであって、地震・雷が特に多かったわけではない。

さて、額が落ちたのは祭神の名を門に掲げたのが神意に沿わないからと、落ちた場所に埋めたのがこの額塚である。また一説赤童子の出現した処というので出現石とも呼ばれる。春日赤童子についてはいろんな伝えがあり、童子といえ憤怒相をした総髪の子供とも成人ともわからない男子で、春日信仰に途中から混合した民間信仰であろう。南北朝時代の奈良地方では春日講の本尊として祀っていた形跡があるという。(了)






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