●『寧附日記』川路聖莫(としあきら)
このひとは奈良奉行に45歳で赴任して来た時、江戸に残した実母にこまごま奈良での日常を書き送っている。『寧府日記』がそれで、まさか後年自分の著述の殆どが公開されるとおもっていませんから、文章に飾りがなく、人物評も直截である。
当時の奈良の様子がわかっておもしろい書である。先ず京街道をぬけて、奉行の格式ある行列で弘化3年3月19日の春の日、奈良まちの人々が出迎えた様子を
《まるで南京を摘み足る如く頭を並へ、女友衣類を着替えて出迎えている。わらふへきことの多かりき》
●日本最大の敷地、奈良奉行
初めて入る奉行所を、ふるいけれども立派な建物で「5、6万石の大名のような立派さ」とご満悦のようす。八千坪もある敷地は現在の奈良女子大がそのまま引き継いだ。江戸の南、北奉行や大阪,堺の奉行所は3〜5千坪ですからそのお大きさが知れよう。中に築山した庭園、吉城川の清水を引き込んだ小川と泉水があり、大いに満足された様子。
●馬鹿の片割れは興ざめ
奈良にきた当初、鹿がめずらしく、屋敷の庭に数匹入れたところ、前菜の葉をぜんぶ食われてしまった。「犬ならワンと鳴くのに、馬鹿の片割れは興ざめ」と肚をたてた。着任してさっそく春日社、手向山八幡、二月堂、氷室神社にお詣りし、三日目に大乗院と一乗院をたずねたが、未だ若い一乗院門跡は京都にゆかれて留守、後にふたたび拝謁のため熨斗目長袴に威儀を正して参上した。院主からお酒、お吸い物など手ずから下されたが、膳の白木は鼠色を帯び、銚子は黒く錆びていて、思わず涙の落ちる思いであったという。
廃仏毀釈の波はすでに全国に寄せており、興福寺とその仏僧たちの頽廃ぶりを痛罵しつつも、院主の生活難にそれとなく心をかけていた。
●知識をもとめ、自分なりの批評を忘れず
川路聖漠の優れた資質は奈良にくれば村井古道の「坊目拙解」(筆写本が奉行所にあった)を読み史書を探索し、奈良奉行が知るべき事蹟を学んでいることである。任期が終わるまで奈良には殆ど来ない奈良奉行が多かったなかで吉野から地方の農家を巡察した異色の能吏である。
この書は川路聖漠の100年前に書かれた漢文で、当然江戸末期の漢文とは異なるのであるが、坊目拙解を評して「拙文の極みなれ共、其偽(ウソ)は少き書と見ゆ」なんて貶したり誉めたりしている。
聖漠の漢文碑(植桜楓碑)が五十二段横にあるが、あれが名文なのですか、難しすぎる。
●明治元年、幕臣の進退
日露交渉で和親条約を拒絶する任務を命ぜられ、それでも誠心誠意プチャーチンと交渉して、ロシアを怒らせずに終えたこと、江戸で再度交渉するが座礁したプチャーチンの船を修理して、プチャーチンを感激させ、を引き出した。ついでにロシア船の構造をスパイしている能吏である。
そのあと、江戸幕府では阿部老中が去り、井伊直弼大老に嫌われ、中風で動けなくなったり晩年はさんざんなのですが、その辺りは飛ばして、江戸開城の報を一ヵ月早く聞いた、4月7日に身の振り方を決意、動かない体をよじって腹を薄く切り切腹の儀式の後。ピストル自殺を遂げた。
明治天皇を畏敬していたが、薩長のゴタゴタに嫌気がさしたのだろう。忠節な幕臣はピストルを頭に撃ったのである。68歳だった。
(このコラムは故喜多野徳俊氏の著書『奈良閑話』から多く教わり、引用しました