安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話・飛火野は御料地だった
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( 2015年 8月 29日 土曜日


 春日野の飛ぶ火の野守出でてみよ 今いくかありて若菜摘みてむ
という歌が古今集にある.

●《とぶひの》と呼ぶのは他所もの
元明天皇の頃、という事は平城京遷都のまえに、この場所に風雲急を告げる烽火台がおかれた。飛火の地名はこのときの烽(とぶひ)が飛火野という名の由来とされる。だから国語辞典では「とぶひの」で引くか、あるいは漢字で引かないと出てきません。アホらしいきわみで、拙子らは「とびひの」と言い、飛ぶ火野と口するものは他所ものである。《若菜摘みてむ》などといい加減な事を。あんな森であったところに若菜があるわけない。これを詠んだ人物は頭でひねくり出したにすぎない。だから飛ぶ火野なのだ。

●離宮用地を物色、御料地に指定
さて、今はここで鹿寄せのラッパを吹く。春日山を背景にひろい芝生になっているが、明治初期には鬱蒼たる樹林であった。明治22年、宮内大臣・土方久元から奈良に離宮を設置したいから、適当な土地をさがして《申出すヘシ》と税所篤 奈良県知事に照会がきたのである。

税所知事は春日大社の境内地であった飛火野35,249坪を離宮に最適として上申、これが明治25年に宮内庁によって採用され、クヌギの森を伐採して更地になった飛火野に代金450円(ちと安い気がする)が宮内庁から春日大社に支払われている。

●大正10年にお沙汰止み
その後の地図にはこの飛火野に御料地と書き込まれ、人々も御料地とよぶようになったのであるが、その後大正十年にお沙汰止みになるまでは、奈良の聯隊や県警の演習場に宮内庁からかりうけて使用されていた。

宮内庁の事情は関知しませんが、奈良には陵墓ばかりでご用邸が一つもない。京都には御所が三つとお泊まりされないまでも、桂と修学院の離宮が二つもある。不公平じゃないか。天皇家が国賓を案内して春日大社や東大寺を散策されるすがたを想像ください。奈良に離宮があれば、できたのです。






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