安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話・大仏殿炎上
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( 2015年 8月 16日 日曜日


●平家物語が語る奈良炎上
平家は三井寺焼き討ちにつづいて、治承4年(1180)12月、平清盛が差し向けた四男重衡の軍勢4万が奈良興福寺を撃つべく京街道をくだってきた。28日夜半、暗くなったので民家に火をつけたところ、以下『平家物語』第五巻・奈良炎上によると:
 >夜戦になって暗さは暗し、大将軍中将(平重衡)般若寺の門前にうつ立って「火を出せ」と宣ふこそありけれ<
そこで下司のひとりが盾を割って松明をつくり民家に火をかけたところ、風にあおられ
 >火元はひとつなりけれども、吹きまよふ風に多くの伽藍に吹きかけたり。<
と南都の民家、興福寺と東大寺の大半が焼き尽くされた。後年、平家の南都焼き討ちと呼ばれる。

●犠牲者はいつも老躰・女・子供
仔細を省くが清盛を怒らせたのは現象として興福寺の衆徒であって、武装した僧や衆徒7千人が平重衡軍勢を奈良坂、般若寺で迎え撃った。しかし素人が多勢のプロを相手に奇跡はおこらない。形勢をみて逃げた南都衆が多く、落ち行く先はこのころから吉野十津川、歴史上追っ手が入れない日本唯一の逃避先である。

気の毒なのは東大寺、こちらは清貧な学僧が政争から一歩離れていたのだが、
 >歩みもみえぬ老僧や尋常なる修学者、児ども女、童は大仏殿の二階の上、山階寺(興福寺)のうちへと逃げゆきる<

寺院の内なら仏の加護があると信じていたのか、興福寺、東大寺の堂内に逃げ込み、大仏殿の2階に千七百人が登り、追っ手がのぼれないよう梯子を引き上げた。そこへ大仏殿にも猛火が襲いかかり平家物語には、
 >喚き叫ぶ焦熱.無間阿鼻の炎の底の在任もこれには過ぎじとぞみえし。<
と凄まじい有様が記されている。この灼熱で大仏の頭は焼け落ちて大地に転がり、身体は融けて山のような塊になったという。

●大仏殿の2階?
平家物語では大仏殿の二階に逃げ込んだというが、今では大仏殿の2階が話題になることはない。しかし大仏の上には天井があり、脇侍の左右天井は一段低くなっている、また大仏前後の天井裏はかなりひろい。内側からは見えないがやはりひとが千人くらい入れる広さがありそうだ。これを2階とすると、その上に数階の屋根裏があるはず。

天平の大仏殿は現在より高さも横幅1.3倍ある。裳階(もこし)に手摺をまわしてあり、普段から人々が二階へ上れたのではないかと想像できる。


『東大寺大仏縁起』大仏炎上の場面。後年描かれた紙本、奥書に室町時代天文五年僧裕全とある。

●師走の奈良は強い偏西風
冬、日本列島は京都では西高東低の気圧配置のため、京都では比叡山にむかって、奈良では春日山に向って西から東へ強い乾っ風が吹き荒れる。奈良の火事は京街道を超えて東大寺境内に飛び火することがたびたびあった。

興福寺の喜多院から出火した火が戒壇院に類焼する被害を蒙ったり(長保二年,1000)、はるか西の芝辻の民家から失火した火勢が2月の寒風に煽られて北登大路の村々二千戸を焼きつくし、東大寺戒壇院、尊光院など多数の子院が類焼、辛うじて二月堂は免れたこともあった。世にいう「北焼け」(宝暦12年,1762)である。(了)






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