安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


-------- ----------------------------------
奈良零れ百話・地獄谷の由来
------------------------------------------
( 2015年 8月 13日 木曜日


以前、7月23日のコラムに「地獄谷の池」を書きました。その後半部の小見出し「●地獄谷新池」から読み継いでいただくと、行末に「休暇を終えて家に帰ってから再度、新池のなぞをしらべたい」と口走っている。約束を果たすべく、一考する。

●能登川は農業用水であった
地獄谷新池から流れる川を能登川と呼んでいるが、この谷川は古代からあったらしい。らしいというのは文献にないのだけれど、万葉集にこの川の名がでてくる。
能登川の水底さえに照るまでに みかさの山は咲きにけるかも

いまの能登川は地獄谷から高畑をくだって紀寺の南を流れ、南京終で岩井川に合流するまでの呼称である。岩井川は佐保川に合流し,佐保川は大和川に入り大阪湾に注ぐ。だから能登川は河川学的にいえば「大和川水系三次支流」とよばれる。

奈良市には数条の清流が春日山系から流れ出ていたが、水量も減り殆ドブ川になってしまった。市街部を暗渠にするころには既にドブ川になっていたのである。それでも暗渠にならなかった川がふたつある。北の佐保川と南の能登側―岩井川である。両河川とも古墳時代から稲作地帯で、当時は水量豊富な両川地帯はコメどころであった。灌漑の仕組みはあっただろうが、洪水による浸水被害はすくなからずあったはず。鎌倉時代、大掛かりな土木工事が出来るようになって、米作地の安定のため河川をコントロールする堰をつくって池にした。地獄谷新池が造築されたのもそのころであろう。

●地獄谷の呼称
地名としての地獄谷は硫黄が吹き上げ、蟻も雑草もない死の火山地帯が多い。一方屍の捨て場になった山深い谷の地名にものこっている。行き倒れや葬式をだせない貧農は寂しい谷地に捨てられた。それが日常のなんでもない時代が長かった。

春日山のケースはどうだろう。拙子がいいお話と心に留める故・喜多野徳俊氏の推論がある。
【私思う、東大寺大仏、大仏殿の工事に駆り出された役夫たちは(春日山のいまいう滝坂のみちにそった山道を登り、このあたりの凝灰岩を切り出す)石を切り出し、この谷を東大寺に運び出した。その道はまさに地獄の苦しみであっただろう。また思う、春日社の一宮は釈迦が本地である。釈迦の居ます春日山が極楽ならば、その下の谷はまさに地獄谷と呼ぶのが一番良い】(喜多野徳俊・奈良閑話、地獄谷聖人異説より)


●深い谷の恐怖
拙子の実兄が模型飛行機に凝っていた中学・高校時代、若草山からグライダーを飛ばしていたら、グライダーが東の方,春日山にとんでいってしまった。飛行中に追っかけながらおよその地点、水谷川の谷に落ちたもよう。滑り落ちるように谷へおり、グライダーを見つけたのはいいが、方向感覚を失ったようで、とにかく空の見える北の斜面をのぼって、自動車道に出たそうだ。心底おそろしかったという。兄にいわせれば、地獄谷は水谷川の一本南にあり、もっと深く恐ろしいところという。

約束ではありませんが、地獄谷石仏群について知る所をいつか書いてみたい。(了)






Pnorama Box制作委員会


HOMEへ戻る