●柳生街道
春日大社の南端、高畑町をのぼった飛鳥中学のあたりから柳生街道がはじまる。忍辱山円成寺(にんにくせんえんじょうじ)を経て柳生の里に至る約19kmの街道である。五年ほど前、一度円成寺から奈良氏に向って歩いたことがある。途中明るい茶畑の中でリュック弁当を食べ、農家のおばさんから自然薯を買って、峠の茶屋で皆がするように一服、このコースは下りだがそれでもほどよい以上の運動になった。
柳生街道そのものは平安時代にこの名で呼ばれ、ほそぼそと荷だの行き交う道として南都七大寺が整うまえからあっただろうが、昼でも暗い山中の厳しい道があり、街道と呼べるようなのどかな雰囲気はない。
五年ほど前のこのときは上からくだってきて美しい「地獄谷新池」、拙子たちのわかいころはただ地獄谷池とよんでおり、新池などとはよばなかったこの池に出て、秋の紅葉を水面にうつす景色にほれぼれした。若い頃に高畑から歩いて三キロのこの池を初めて見たときほどの衝撃ではなかったといえ、地獄谷の池は奈良にあって最も自然のままの人間がさわっていない景観を維持している。
●汚れた奈良のため池
奈良盆地はため池がそこらじゅうに作られて、農産物が豊富な県になった。河川のすくない奈良県で「やまと水瓜」が名産になるなど、ため池の数の多さがわかる。しかしため池は耕地の中にあるので美しい姿とは無縁におもえる。
大和に多い、陵の堀池はそれぞれ静かな佇まいがあり、美しくあったが、水質汚染が進んでいる上、「池さらい」の習慣がみられなくなった。農地の住宅化や、池近辺の町内会がよわくなり、池さらいとか泥上げをしないから、古墳の堀池がだいなしである。
●地獄谷新池
自然の地獄谷の池だけは、池さらいの必要もなく美しい。この池を「新池」というのは、地獄谷の付け根のところに土手を造築して池にしたので、自然にできたものではない。いったい何の為に春日山の奥に・・用水の必要はなし、地獄谷を流れる能登川はせせらぎに等しく氾濫する事等考えられないのだが。新池が造成されたのは早くて江戸時代、滝坂の石畳が工事されたころだろう。
池は地獄谷の付け根のところにあるため、下から上って行くと、池は全く見えない。そのため、土手をゆく道に出たとき唐突に池が目に飛び込んでくる。息をのむ瞬間が実感される。池は谷をせき止めて造られたので、すり鉢状に深く、どこにも浅瀬がない。もちろん拙子少年のころも水泳禁止の立て札があった。
地獄池には上流がない。つまり春日山、芳山(ほやま)の南側に向う伏流がわき出す泉をせき止め、てわき出し口が他所へ移らないようにした。まいまは拙子の想像ですが、休暇を終えて家に帰ってから再度、新池のなぞをしらべたい。
秋の『地獄谷新池』奈良県観光の公式サイトより。秋の紅葉写真ですが、桜がない春もよい。春といえば花見、それもよいが桜の全くない新緑に燃える火獄谷の春もいいものです。