●ひっそり佇む知足院
東大寺の境内にあって、観光客はもちろん、何度も東大寺を訪れているひとでも、知恩院にはめったに来ない。この塔頭は東大寺子院の一つであるが、代々の管長や長老になる家系の住居だけではなく、庫裡へは別のがある。それだから、知足院の門内にはいって本堂や鐘楼(新しすぎるが)を見る事が出来る。法会は一年に一度の「地蔵会」だけですから,余程の地蔵好きでもないと知らない子院である。
なぜかというと、大仏殿や戒壇院、二月堂、三月堂、から八幡さまへのように、各所を廻れるルートにこの知足院は外れているらではなかろうか。
知足院へ行く道は、大仏殿の東回廊に沿って道正倉院の東北角まであるいて、東の方角に長くゆるやかな石段をのぼってゆくと、一挙に下界と時代を超越した歴史に身をおくような気分にひたる。尤もいまや正倉院裏通りは舗装され、若草山ドライブウエイへのバスや車が行き交うが、さいわい、ドライブウエイの入口は正倉院の角から北へ行くので知足院の静寂は護られとりあえず護られている。
白壁がほとんど剥がれた土塀、どなたか東大寺僧が住む庫裡へ逸れる石段もあり、荒廃ぶりは踏みとどまった風情である。ある日、拙子が石段をおりてゆくと、下から来られる僧侶にであった。各段に右足をあげ、左足を同じ段の前の方へおいて、次の段に右足を掛ける、というゆっくりとした歩調。ま、こういう状況では観光参観者が脇へより、立ち止まって会釈する。僧侶は習慣的に会釈をかえして歩行はかわらない。ゆっくり庫裡に帰られた。
それがしは新教だが、これは礼儀よりも歴史と文化に属することであり、道筋で僧侶や神官に出会うなら、会釈して道を譲るのが「倫」である。とても爽やかでした。
知足院の門への石段、門はいちも開いている
●もと興福寺の子院であった
平安時代、山麓に建てられた知足院は、興福寺法相宗の教学道場であった。したがって藤原一族の塔頭なのですが、興福寺からはかなりの飛び地である。東大寺西南角から転害門にくだり、門をはいって正倉院(の裏をとおり、知恩院に行く。つまり東大寺の端っこをあるくわけで、誰に迷惑をかけることもなかった。正倉院は明治になって宮内庁管轄に移ったが、それまでは東大寺の管理下にあった。
知恩院の裏山にもいくつかの建物、僧坊や学堂があったようだが、いまは崩れた土塀の一部が残るのみ。一乗院の家系の墓があるそうで、華やかな頃は藤原氏の子弟が優雅に御経を習っていたのだろう。だが、東大寺の所有でもなく、平安貴族の末裔が侘しい山麓に長居できるとおもわない。いつのまにか、破壊僧や乞食僧が占拠し、悪党どもの巣沓になった。
荒れ放題になっていたのを、東大寺のなんとかいう坊さんが悪党どもを追い出し、東大寺の子院として再興した。うろ覚えだが、鎌倉の頃ではなかったかとおもう。この辺りの事情は、それがしただいま、夏休み中で、8月12日まで家を留守にしている。詳細資料は家にあるためもどかしい。許されよ。