●夏の雲
気象現象の呼び方には、風土、地方に独特な用語があった。「奈良次郎」は奈良の方角に出る入道雲、ある夕立雲を大阪の方から見た呼び名で、奈良の人間には知られないのではないか。拙子は聞いた事がない。奈良市の東は春日山の方角だが、入道雲は
たいてい南西寄りに出たようにおもう。
井原西鶴の好色一男」にこの奈良次郎がでてくるが、浪速のひとは北にでる入道雲を『丹波太郎』、東南にむくむく上るのを『奈良次郎』、南に出ると『和泉の小次郎』と、江戸の昔にはそんな呼び方があっっという。こういう男性の名を入道雲に名付ける風習が全国的にあって、入道雲が立つ方向の地名を冠して、…太郎、とか…次郎、…三郎と呼ぶ。信濃太郎は』は近江・越前から見た呼び方、江戸では坂東太郎、紀州では『阿波太郎』、などなど各地に入道雲の呼び方があった。
●標準化された気象用語
気象報道がメディアを通して一律になり、雲の名前は高さによって入道雲は積乱雲にうろこ雲やいわし雲なら巻積雲と呼ぶ。気象用語もグローバル化したのである。雨や夕立は使われるが、降雨量では味気ない。せいぜい『春一番』や菅原道真の《こちふかば……》句のおかげで『東風』がいま健在。さてもや『奈良次郎』を復活させるてだてはないものか。
●天気は情操を育てる
梅雨は使われても、梅雨しぐれや夏しぐれ、慈雨とか狐の嫁入りと言う言葉は使われなくなった。さっと昼過ぎの通り雨を「狐の嫁入り」と普通口にしていたのに、若い人に通じなくなってしまった。誰のせいでもないが、異常気象が常態化すると古い呼び名は使いたくても有効ではなくなった。有効なのは、方角の「やじるし」と風速.降雨量を示す「数字」といえ、風情がない。神代より、お天気もようはひとの心を育んできた。お天気を心に感じないでどうして自然に親しめるのか。
●自然を心に感じたい
歩くのは健康によいからといって、そう言う同好会や、企画が盛んである。しかし、一カ所にすわったまま、雲の流れるのを白い雲が眺め、樹々を渡る風を聴き、鳥の声に耳をすます。するといつのまにか、自身の呼吸が辺りの鼓動,自然の響きと一体になるのを知る。えらそうなことを言いましたが、当地で夏らしい雲を見てぼんやり想いました。(了)