安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話・鍋屋町-5最終回
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( 2015年 7月 13日 月曜日


●みがき砂やさん
町内の真中南側に、今にも倒れんばかりの傾いた藁土塀の棟の横に入口があり、右から奥へは長屋風になっていた一角があった。ジェーン台風(1950年8月)に一段と傾いたのであろう、進駐軍の米兵がジープでやってきて、微雨風雨の中で突っかい棒をしていったのを見た。もちろん今は建て替えられて昔の面影なし。

さて、その藁まぜの黄色い土塀の小さな物置のような所に、粗めと細かい二種類があっただろうか、囲いに磨き砂が入っていて、小柄なおじいさんが演芸用スコップみたいなもので、量り売りしていました。別に看板をだしているわけでなく、手押し車を押して行商していたようにおもうが、その頃すでに腰の曲がったお爺さんで、拙子がお爺さんの行商姿を見た記憶は無い。50年代はすでに洗剤各種が出回り、亀の子たわしと磨き砂は需要が激減したとおもう。福祉が行き届かなかったころ、生活に困っていた身よりのない老人だった。

磨き砂だが、火山灰の層から掘り出し、振るいに掛けるだけで売り物になるものから、凝灰岩をすり潰す種類まで、採掘場所によっていろいろな製法があるとおもうのだが、奈良の産地ならどこだろう、近い所では生駒も二上山も火山が隆起した山だから、考えられるよく知らない。あるいは三重の津付近は江戸時代から磨き砂の大産地だったので、そこからかもしれない。

白っぽい灰色のちょっと湿った磨き砂を、母がちょいと金だらいをもって傾いた磨き砂やさんに入って行ったものである。

●かつを節やさん
鍋屋町にふくまれていない花芝町(東向き北)だが、向かいは鍋屋町でおなじ旧二条大路に、かつを節だけを売る店があった。小さな店は今もあるので、ニッシェとして商売は成立しているようだ。当時の花かつおはすぐ味がおちるため、店のお兄さんは売りの量をみて機械で花かつをに削っていました。だし用の鰹や、粗め、ふと削りといろいろの削ぶしが並んでいて店の前はいつもいいにおいがしていました。

拙子のすきなのはカチンカチンの鰹節、白っぽくカビのついたまるのままのもの。進物用につかわれた上物である。これをその頃どこの家にもあったカンナを箱形にしたような削り器で片々に削って、しがむ。実にうまい。ロクな駄菓子しかなかったころですから、これは高級なおやつである。食べ出すと鰹節がどんどん小さくなるので、盗み食いがばれて小言をくらうが、兄と一緒に止められません。

しかし、人間の知恵はすごいもので、鰹節には骨がない、もちろん頭も内蔵も皮もない。生かつおからどうやって作るのか、不思議のひとつ。いまでは真空パックで花かつをの風味を失わず食べられるが、その場で削ってもらう花かつおの方が言うまでもなくうまい。

鰹節製品が北欧では、輸入禁止になりそうです。PAHで知られる「多環芳香族炭化水素(polycyclic aromatic hydrocarbon)」が多くふくまれるため、国際的に許容値のガイドラインがあるらしい。それがしはもう残り少ない人生、気にすることもないが、帰省時に鰹のだし汁を飲み干すのはやめましょう。(了)






Pnorama Box制作委員会


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