-------- ---------------------------------- 奈良零れ百話・鍋屋町-4 ------------------------------------------( 2015年 7月 12日 日曜日 )
町内、商店街がおわった先き東側が同町の大半を占める。そのなかに裕福な二つの邸宅がGとJ である。 ●富裕者の起源 二軒のおおきなお家があったのだが、旧家かというと、そうではない。どちらも戦前からあったが初代当主が明治ですから、大正のころに産を成した人達ということになる。 産を成した方便はさまざまだが、近代の小資産家の始まりは多く成金あがりである。良い悪いの問題ではなしに、特に尊敬されるている_巣ではなかった。たとえば隣町には数学者の岡潔先生がごく普通の家にお住まいだったが、やはり近隣から尊敬されていいました。尤もご本人は飄々と世間体はどこ吹く風というひとでした。 ●観劇用ミニホールがあったOさん宅 Gは、「やまと」の名で教職員組合の旅館や、結婚式場、宿泊施設に転々としたあと、現在取り壊し中である。ここがもとOさん宅であった。子供たちがそれぞれ独立して家を出たあと、19600年代に家を処分して越してゆかれた。その Oさん宅の跡地に「やまと」が建ったわけだが、これが取り壊されて跡地はマンションになるらしい。 Oさんの住まいは、家宅も敷地も五軒分の広さがあった。道路に面して、高い壁−−広めの格子戸−−土蔵の白壁 が道路の前面に出ていて、門がない。中はどういう構造か、見当がつかない。格子戸から見える範囲は左に下男が住むような一棟、石畳の正面に玄関、土蔵の後ろを右にはいると井戸がありました。母屋の一角に「観劇室」というのか、ベンチの客席が数列有り、舞台もある板張りのミニホールがあった。 お正月にこのミニホールに町内の人を招いて、あれは手品だったか、漫才だったか、小生も呼ばれてその場にいたのだが、小さかったのでみかんを貰った事しか。たしか舞台の袖にピアノがありました。 この家は戦後GHQが将校の住まいに没収されなかった。ちょっと複雑な和風造りが米人には住みにくかったといわれているが、その通り欧米人の感覚からは魅力の薄い家である。 取り壊しはじまった宿泊施設『やまと』はもとOさんの宅地 ●米軍に接収されたNさん宅 進駐軍の将校宿舎として接収され、占領中はつぎつぎ、いろいろな米軍人が入れ替わりすんでいた。かならず日本人女性のメイドがいて、気まえのよいメイドさんにグラブ、ミット、バットを借りてあそんだものである。この家は真中に引っ込んで門があり、二階建て母屋の両側は庭、こういうスタイルの家は必ず接収されたようだ。前の土地は別人の敷地だが、ガレージに接収され、ジープが入っていたり、大きなアメ車が止まっていた。小さな子供連れの将校夫婦が多かったので、彼らは大きく見えたが若かったのですな。黒人もいて、ビスケットなど呉れるので、中に、そう土足であhがったりしました。畳の部屋絨毯がかぶせてあり、でかいグランドピアノを置くので、あれでは座敷がかわいそですね。玄関や座敷など白木のままでしたが、台所はペンキが塗られていた。 草のない裏地は金属製の干し物と、猿の檻があってギョっとした。ま、動物が入っているのはみたことがないが、当時チンパンジーを飼っている家は奈良にもありました。 占領がおわり、Nさん一家は大阪から戻って来られた。主人も奥さんも顔は知らない。この一家とは町内付き合いも無かったのだが、双子の兄弟がいて、大阪の学校へ通ってたいたようにおもう。小生より五歳ぐらい上だったろうか、近所のこどもと遊ばないから、どちらが兄でどちらか弟か、だれも解らずじまい。二人揃って慶応へ進学した。でそのころN家は引っ越しして行かれ、暫くして政界の大物、右翼の顔効き氏と関係のある老女性が独り住まわれ、痛んだ家屋の大改修が行われた。ま、それもいまはふるくなりましたが。 その昔、町内にピアノがあったのはこの二軒でした。 もとN家の門、米軍将校が住んでいた時は中が見えない鋲打の扉でした。見越の松が大きくなりすぎたようで……
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