安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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拙著の新刊案内『奈良まち奇豪列伝』-4
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( 2015年 7月 10日 金曜日


●伝道70年、最晩年を奈良で司祭する
ヴィリヨン神父という名は、 奈良市のお歳を召したカトリック信徒なら、必ずご存知の偉大な宣教師である。登大路の現在「奈良県立美術館」があるところに「奈良カトリック教会」があり、畳敷きの堂内、塔頂十字架に水煙を施した素晴らしい和洋折衷の天主堂があった。水煙は戦中の「金物供出」で軍需品に化けたが、日本国の為に協力せよとのバチカンの返答できまった。

●筆者口上
わが家から小学校に通う道の横にあり、毎日見ていたのであるが、この教会を建てたのがヴィリヨン神父であったとは、平成の年まで知らなかった。そんなわけで気にかかっていた人物である。

神父はパリ・ミシヨンから派遣されて長崎に上陸して以来、生涯たった一度も故国フランスに帰らなかった。パリ・ミシヨン(パリ外国宣教会)とは、大浦天主堂を完成させたプティジャン神父が、この組織から来日した最初の世代である。イエズス会などに比べると新しい宣教会であるが、ヴィリヨン神父は、明治元年に来日し、日本と日本人信徒に殉じた最後のT伴天連Uであった。

神父は引退を拒否して大正14年、82歳の高齢で奈良まちに赴任した。そして昭和7年、亡くなる前日までこの地で天務に捧げ、奈良教会の、あの水煙を施した天主堂の完成を見ることなく帰天したのである。なぜ82歳という高齢司祭として奈良に赴任して来たのか。もちろん周囲の後輩宣教師たちは、引退して悠々自適に暮らしてください、と奨めたが、これがまた、ヴィリヨン神父のカンに触ったようで、「休むためにきたのではない、死ぬまで働くのだ」と譲らなかった。

そこで西日本を統括する大阪司教が説得にあたり、ヴィリヨン神父はしぶしぶ任地山口県の萩から神戸中山手天主堂教会の地に一室をもらって隠居したのであるが、悠々自適などもってのほか、性に合わない。ヒマをもてあまして、「どこでもよいから、小さな教会をひとつ与えてくだされ」と大阪司教にくいついたのである。年若いカスタニエ司教は不承々々奈良の町なら大阪から電車が通じていて安心だ、静かなところであり、ヴィリヨン師に良いだろうと考えて、最後の赴任地に奈良市を選んだのだった。すると神父は、許可の出たその日に荷物をまとめた風呂敷包みひとつ抱えて奈良市阿字万字町(あぜまめちょう)にあった借家の仮教会に引っ越したのである。大正14年(1925) の夏だった。

神父は宣教の信念に一生をささげ、常に第一線で、しかも伝道が困難な地をわざとえらん
だように赴いている。教会組織や予算、書類など、机上仕事に興味がなく、生涯を一司祭のまま、栄誉栄達とは関係のないところにあった。文字通りの粗衣粗食でありながら惜しみなく物を与え、金を施し、魂を潤す。それでいて寄付金集めの天才だった。

奈良の天主堂も、ゼロから一人で土地建設資金を集めてしまった。筆者は数冊の教会関係者が書かれた伝記を読み、歯の浮くような賛辞の羅列にTホンマカイナUと疑心ぬぐえなかった。だが事蹟、史実資料からは疑いを挟む余地がない。亡くなる昭和7年4月1日の、まさに前日まで、奈良まちを離れなかった。

行動の人、ヴィリヨン神父はいつのまに時間を工面したのか、多くの著書(フランス語、スペイン語、日本語)を遺し、師の評伝は単行本が4冊、小誌や教会の会報に掲載された文を積み重ねると膝までの高さになる。ヴィリヨン神父の著書や編集誌を含めると腰まで届きそうだ。加えて、大正−昭和初期の新聞や週刊誌に連載や特集がある。氏の足跡資料は膨大に存在するわけで、拙子が書き加えることなど何ひとつないのであるが、近年はヴィリヨン師をテーマにした出版が途絶えていることもあり、新教の筆者が敢えて試みるのも一興ではなかろうか。師の奈良時代を中心に、霊父の小伝を企てたしだいである。

“フランス生まれの日本人”を自称した神父は、現在ではありえない奇行逸話がつきまとう。ヴィリヨン神父こそは、不世出の奇豪である。






Pnorama Box制作委員会


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