鍋屋町の西端は「東向き北商店街のつづき」といった感じで南側を見ると、
●南側の商店
Aはお八木のお米やさん。八木さんは字の如く米を商う家名である。明治に遡る老舗で戦後の配給米を扱っていた。自転車の左右荷物台に米袋を載せてペダルを踏む先代を毎日みたが、1センチバランスを崩すと倒れるのを、よくできたものだ。名人芸ですね、現当主T兄さんも昔はうまかった。
八木さんの隣(AとBのあいだ)にも米谷米穀店があり、ここも字の通りお米屋さんのかけいなのだろうか、廃業されて久しい。
たしか米谷さんのとなりが西川書店があって、月刊誌や週刊誌の購読家に自転車で配達していた。ベニヤ書店が近くに出来る前は良かったが、一時間立ち読みしても怒らない経営戦略に欠けたおっちゃんでしたからいつのまにか消えました。残念だ。
Bは酒屋さん、時代劇に出るような商家の造り、屋根看板、2階格子窓二飾られた丸い蜂の巣、玄関は遅く迄開け放たれていて年中置かれた火鉢の前に座って、煙管をくゆらす主人が外を見つめていた。土間から畳に腰掛けて、主人を相手に一杯引っ掛けて行く客がいたから、飲み屋でもあった。いまはワインの店に変わっている。
Bの隣はお菓子屋さんで、おじさんが早朝から鶴橋へ買い出しに通い、大きなふろしき包みを背負って返って来られた。ほかほかのパンがありました。いまは 「ベカリー.ポポロ」というすっかり粋なお店になって、有名らしいですね。
その隣、竹林節さんの家の前に表具屋さんがあったが、襖の張り替えや修繕をする表具師は、お寺さん等大口の注文客でもなければ、シンドイ。廃業後は電気屋さんがきて、力道山、木村組とシャープ兄弟のプロレ試合は店の前が鈴なりででした。町内運動会が、飛び火野や大仏殿裏でありましたが、その時の色電球や、蓄音機で軍艦マーチスピーカーで流すなど電気配線は田中のおっちゃんでした。しかし、公園であんなことが許されている時代があったのですね。この田中電機は奇跡的にいまでもあります。
もう少し先G(取り壊し中)の向いに の 増田ミシンやさんが開業した。針糸しかなかった主婦に繁盛したもよう。ハンサムな新婚夫婦がいて、機械によわい主婦が困ると出かけて修繕、売った品物はさいごまで面倒を見る小さなミシン屋さん、量販店に負けずまだ健在です。
●北側の商店
北側は、西から花やさん、 乃登屋と言う屋号の呉服屋さんは明治老舗、久屋のお寿司屋さんも古い。角に太鼓腹の八百勝さんがあり、ステテコ、ランニングでいがぐり頭の主人が、奈良女の学生にダイコン、ジャガイモ、ネギなどを測らずににどんどん値引きして新聞紙の切り紙に包んでいました。今は薬局になっている。
筋を挟んで安政建立、竹林節さんの家と工房がありもう商店はない。次回は資産家の家ふたつを取り上げる。
(了)