今回は四人の奇豪から、第二章「工藤 精華 利三郎」1948〜1929 に付した筆者口上の抜萃です。
●呑んだくれの古美術写真師 呑澤・工藤利三郎
利三郎のオリジナル鶏卵紙焼きや、ガラス板の種板(原板)1250枚、その他遺品が「入江泰吉写真美術館」に併設された工藤精華資料に保存され、 国の有形文化財に指定されている。種板の散逸を防ぎ、市に保存すべく奔走したのは鹿鳴荘(ろくめいそう)主人、写真家の永野太造(たぞう)だった。
写真が記録から芸術に発展した動向についていけず、取り残された晩年の利三郎はさびしかったにちがいない。
●筆者口上
奈良の古美術写真は工藤利三郎に始まるといわれる。その事実に異論はない。奈良に住んで、仏像写真を専門に始めた草分けであり、その作品は海外博覧会などで公的な日本紹介に使われ、一時代を画した写真師であった。ただ筆者がおもうに、仏教美術における絶対的な資料価値があるけれども、氏の写真が公共の美術機関や図書館を除くと、買い手はわずかに裕福な好事家のみ、それだって競合する写真家がまだいなかった年代に限られていた。後発の小川晴暘氏が、帝室博物館(現国立仏像館)の道路を隔てた通りで写真館・飛鳥園を開くと、その芸術的な画像、無愛想だが、古美術学者に愛され社交性もある小川晴暘に、利三郎のお得意先であった内務省、文部省、博物館や寺社までが鞍替えし、利三郎を去って行った。一般の古仏愛好家ら、人々の目が飛鳥園に向くのは当然であった。
工藤利三郎とは、いかなる人物か。彼が住んだ奈良の人々に馴染まず、近所付き合いもない偏屈なアル中オヤジ。それなのに、豪華写真集『日本精華』11巻を私費で刊行、借金漬けにもへこたれず、古美術写真の歴史に金字塔を打ち立てた。仏像写真の先駆者・工藤利三郎は世渡りべたで呑んだくれのオヤジと知って以来、長い間、この自ら呑澤と号する明治人に、筆者はたいへん惹かれていた。
さらに呑ん兵衛オヤジは妻帯せず、評判の美しい養女「コトノ」(お琴さん)と生涯暮らしている。40年一つ家に暮らして、養父 利三郎の死を看取ったコトノさんは、父の死後、わずかの遺品をのこしてプライベートな写真、養父が自分をモデルにして撮った 写真を一切合切ぜんぶ処分してしまったのである。利三郎は自分の写真を撮らせなかったが、それは幼少時に患った天然痘のため、あばた顔を撮られたくなかったからと言われている。だがオコトさんはグループ写真にしろ少しはあったはずの養父の写真も処分した。だから利三郎には似顔スケッチしかないわけだが、養父を語らず自歴を抹殺するかのような行為。いったい何があったのだろう、背筋がぞくっとする怪談ではないか。
お琴さんは遺品の古美術を写したコロタイプ写真とガラス原板を売却しようと、菩提町で隣同士だった北村信昭氏に相談したり、各方面に当たられたようだが、京都便利堂に断られ、どの古美術商も二束三文で話にならなかった。お琴さんの没後、くず屋に渡るのをすんでのところで市に寄託することが決まったのだが、それには工藤利三郎の名を留めることに奔走し、晩年のコトノさんが頼りにしていた鹿鳴荘の主人、永野太造氏の尽力があった。あのときくず屋に売られていたら工藤利三郎の種板が世々存続したか、修復前の仏像写真などの貴重な資料が現存したか危うい。
さて、ガラス版の寄贈を受けた奈良市教育委員会が、工藤利三郎の功績を知らしめる豪華な大判写真集を非売品で出版した。上田正昭京大名誉教授をはじめとする編集者諸氏の労作『酔夢現影 工藤利三郎写真集』は、全国の主要な公共図書館に置かれている。第一級の歴史に残る貴重な資料であるが、またそれゆえ一般に売れる見込みがない種類の本です。非売品である。うらやましくもあり、ときに文化保存に予算を惜しまない市の度量に敬意を表します。
この書には編集委員の中田善明氏が付記された「工藤利三郎評伝」があり、氏はのちに決定版というべき『国宝を撮した男 明治の写真師 工藤利三郎』(向陽書房2006年)を小説風に出版された。
翻って拙子の書く小文は、些か斜めに見た構図で、ネタの出所を示し、それらを引用しつつ構成する所存。そして、暗箱で写真は撮れるが出来映えはいまいちの体力頑強なパイオニア、やるときは人の何倍も張り切る憎めない親爺。<自惚れと妬みにまみれた呑んだくれの難しいオッサン>と談義するつもりで書き綴ろうとおもう。そして気になる小町娘の「お琴さん」に枚数をとりたい。父、利三郎が撮した自分の写真を全て処分した。あれはリベンジでなかったか。