安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話・鍋屋町-2
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( 2015年 7月 8日 水曜日


「寺川道具店」は黄色塗りした鍋屋町のD、その隣Cが改修された初宮神宮。今回はこの2カ所を取り上げます。グーグル地図のストリート・ビューで見ると現状がよくわかる。後ろのビルはGにある、休業中の『やまと』という宿泊施設。



●寺川道具店、窓のない2階、そのわけは
ウーム、写真で見ると相当ボロボロになっております。何度も改修されたのでしょうが、家の造りは江戸ですから、大黒柱ほか太い屋台骨がモイ答えているのでしょう。お向かいが先回の林歯科医院で奈良女子大と接しています。この女子大の広いキャンパスは奈良奉行の敷地でした。江戸幕府が天領に置いた奉行で、ひときわ偉容を見せつける宏大な奉行所は奈良と京都、ほぼ同時に配置されました。

奈良奉行所は、 、法廷にあたるお白州があり、与力、同心などは奉行所の外にかたまって住居をもっていた。 多門町の佐保川沿いは、高級役人の住居があったところで、土塀にがっしりした小さな門と日常使う潜り戸があり、そんな旧家に一度入ったことがあった、中は明るい別世界でしたな。

奈良奉行も一方は佐保川、周囲に土塁を巡らし、いま女子大の正門があるところに、黒門と呼ぶ場なら奉行の門があったわけです。 江戸時代には奉行所周囲に民家がなかったのですが、寺川道具店はあったのですな。

さて、寺川さんの二階すが、本来あるべき漆喰の縦格子が塗りつぶされている。昔からそうなので、風も入らず夏は住めたもんじゃない。地勢からみると、寺川さんや林さんの土地が奉行所より高い。二階から奉行所野中が丸見えになる。江戸に住んで滅多に出張して来ないお奉行様がこられると、奉行所内の屋敷に入る。寺川さんはその様子までみえるではないか……不届きものめ!

そうなるより先に、きの寺川主人が2回前面を白壁に塗りつぶしてしまった。という前面窓のない二階の理由を奈良女の住居学の先生が推量された。ただ現在の寺川当主も女将も、生まれた時から窓なしだったので、特に親から聞いたことはない、物置やよっていまさら開けてもはじまりませんわ、ということでした。

奈良には進駐軍が多かったので、占領がおわったとき、 大振りなアメリカ家具が古道具屋に出回ったときがあった。ガッシリ大きい木製のソファー椅子を2脚買った事がある。座部にクッションを置くだけで良いのですが、アームなんか手垢でよごれているのを、寺川の故ケンちゃんが漂白剤で脱色するとラワンが白木の用にきれいになった。ケンちゃんが(お歳は拙子よりひとまわり上)ボウタイに蝉を彫っていると聞いて作品をふたつ、かなり前の帰省時に買い求めたのが、店に立ち寄ったさいごになりました。掘り出し物は戦後に女子大の先生方があらかた買ってしまったので、骨董品はもうないとおもう。

●初宮神宮
幼少より「初宮さんと」呼んでいた小さな神社、写真のように鳥居があったが、鳥居に木柵があり、不断は入れない。改修された緑の連字連子格子ではなく、ただの木柵だった。もっともミニ社殿とお稲荷さんがあるくらいで入る気がおこらないみすぼらしさでした。鳥居の左は集会所みたいになっていて、町内会などやっていたようです。境内に面してガラス戸があり、夏の夜にライトをてらして漫才興行などやっておりました。ハッキリ覚えているが、しろくろTVでおなじみの砂川捨丸と中村春代の堤コンビ、合いに手鼓をポンポンと鳴らすあれです。

本題に入ります。建立されたのは開化天皇の御代と申しますから日本書紀、紀元前の気の遠くなるおはなし。たしか三条通に開化天皇の古墳(陵)がありました。その後平安時代に御堂関白藤道長が改修整備したの、平重衡による南都焼き討ち(1180)で焼失、この時の記録に焼けた興福寺住吉神社というのがこの初宮神社のことであります。なに、ちっちゃなおやしろですからすぐ再興されています。興福寺系ですから当然春日大社との関係深く、毎年11月17日の27日の若宮おんまつりに、田楽法師らがここ初宮神社へきて舞曲し、当日の事始めといたします。それで「初度の宮」友言うそうですが、拙子はきいたことがない。
何があるかも聞いた事がないのですが、正式にはこんな具合…
第一殿 祭所神祇官八神殿 八座、 
第二殿 外宮 二座
第三殿 鹿鳴 鹿取 平岡 相殿陵太神宮 若宮 以上春日五座是也
第四殿 住吉大明神 三座

どうです、伊勢、春日、住吉さんも祀っています。小粒ながら度量の大きい初宮さんなのです。(了)






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