安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話・鍋屋町
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( 2015年 7月 7日 火曜日


●鍋屋町のばらつく印象
奈良市鍋屋町は奈良文化会館の裏通り、登大路のひとつ北の通りにある。近鉄奈良駅から東向き北町商店街を突き当って右(東)へ行く道路が鍋屋町という。地図に囲ったのが鍋屋の町内です。

鍋屋町を何地区と呼べば良いのか、今も決めにくい容相だが、昭和初期から中期は平屋や長屋住宅、大邸宅、商店、鉄工所が渾然と混じり、静かな屋敷のある通りから、夜通し火をふく鉄工所のある危ない通り、インテリの住む家もガタピシのビンボー家があり、鍋屋町の印象は人によって評判は異なる。

  
●町名の由来
鍋屋町とか、鍛冶町という町名は全国に少なくない。鍋釜を作る鋳物工場があったから鍋屋町と称した、との一般的な説は一応正しい。坊目拙解によれば、二三宇(にみう?)という鋳物師が北角に住んでいたのでこの町名で呼ばれたとある。また社寺の石材を集めて石工が数に住んでいたので石切町とか石屋町と呼ばれたそうだが、鍋屋町と言う町名が初めて文献に見られるのは天正年間の家子登録書類である。奈良の町名では特に旧い方ではない。

但し、東大寺西門から、現在の油留木、鍋屋、宿院、坊屋敷、芝辻から平城宮二通じる幅36メートルの 二条通りがあったという歴史がある。みなさんは登大路大宮を通る広い道路が、奈良時代の二条通りと信じて疑わないが、マチガイです。東大寺築地塀、転害門の次は西門であり、西門は油留木の東にあったのです。

●江戸時代に東大寺の御用達鋳物師が住む
現在の鍋屋町は地図中黄色で示した。赤枠Kのところに東大寺御用達の鋳師が工場を持ち、明治に東大寺と無関係の百地鉄工所が建てられた。

朽ちた鉄の煙突から夜通し真っ赤な炎と粉塵をゴウゴウと吹き上げていた。溶鉱炉は一度冷やすと再開に時間が掛かるので24時間営業なのだ。西隣に接していた民家は鉄の火の粉が積もり屋根瓦が茶色になっていて、再三ボヤが出た。その向かいにあるLは今はないが八尾鉄工所という音はでるが火の粉は出ない金属部品の加工では一流の町工場があった。

冬になると、拍子木を叩いて「マッチ一本火事のもと」チョンチョン、「ねこは踏んでもこたつは蹴るな」チョンチョン、と近所の子等と町内を夜回り一周したものです。夜の九時が消灯奨励時にだれが決めたのかそうなっていて、暗い町内で裸電灯がついている家があれば、「消灯時間です!」と夜回りの子供がえらそうなことをいうと、はいはいと消してくれた。また後で点けるのであろうが、子供でも権威を与えられれば大人を討つという心理に後年おもいあたり、愕然とする。

登大路一帯が市政、県政の建物が集まる地区になり、NHK奈良が同地に来るように計画が整うと、火を吹く鐵工所に立ち退き命令がでた。市役所は長く住民の移転要求を無視していたのに、ゲンキンなものだ。NHK奈良が大宮の方へ引っ越しする計画、跡地は何になるのな、心配だな。

●林歯科の先生
奈良女子大の南東端から鍋屋町になる。向いにある「旧鍋屋交番」(現在、奈良北まち刊行活動の拠点「なべかつ」)は鍋屋町内ではないのですな。女子大に接する家は林歯科、手先の器用さでは林眼下の女医さんがいて、林歯科の先代が開業していた。小生が若いころお世話になったのは阪大出身の若先生である。それがしが当地ベルゲンに移住して以来、世話になる歯医者さんが、痛んだ奥歯の金冠を外すとき、「これどこで作って貰ったの」精巧に出来ている事に感心していた。未だ移間もない頃で「日本です」と答えるのが晴れがましかった。帰省したとき、ひょっこり若先生から声を懸けられ、マスクの顔しか知らなかったので失礼してしまった。小生より歳上なのにままだ現役と言う。

●一刀彫、竹林家は安政の建立
Fで示した木彫(一刀彫)の竹林薫氏の住居と別棟工房があった。この家は薫氏の厳父で天才木彫家竹林高行氏が建てた安政年間の家、道路に面して今もあり、末っ子の彫刻家節(恵美子)さんが工房におられる。もう80歳だろうか、伊勢神宮をはじめ全国の神社、神宮から祭礼に用いる舞楽面や、彫り物の依頼で忙しく、いまも毎日工房に籠っておられる。

●初代は竹林−履中斎−高行
竹林家はもと興福寺の衆徒、春日若宮祭や薪能などを采配する家柄であったらしい。初代の高行氏は東京で木彫を勉強し、奈良美術院創設と同時に招かれて手がけた仏像修理は500躰を超えると言う。

奈良では一刀彫の創始者としてあまりにも名高い森川杜園だが、杜園には子息がいなかった。で、竹林家に高行氏を養子にと懇願したのだが、高行氏は頑として断ったと伝えられる。心服しない人の下に着く事を潔(いさぎよ)しとしない明治の人だった。作品は木彫以外の塑像も多い。


●実生活は不得手な二代目薫氏
子息の薫氏は幼少から彫刻を仕込まれ、やはり東京美術学校で現代彫塑を習得した。小生が思い出す薫氏は、工房から滅多に出ない彫刻一途の人、人付き合いはうまくないが飄々と足早に歩く人だった。奥さんは上背のある、興福寺関係の名家の出自らしく、一段高い人のようにツンと難しそうな人。

それがしの父が、還暦に赤いちゃんちゃんこを着て引退だと喜んでいると聞いた薫さんが「何を言っとるか、60歳で仕事を止めるちゅう様な情けない事を云ううてどうするんや!」と怒鳴り込んできたことがあった。わが父も明治生まれだが、明治の男同士は些細なことでツムジをまげては喧嘩しましたな。大の男が喧嘩友達という事象をそれがしはわからんのだが。

●三代目は末っ子の節氏
で、薫氏氏の長男が彫刻家になったが、後目はつかず、東京芸大の彫刻課を卒業した末っ子の恵美子さん(この人は大変気だてが良い)3代目になり、鍋屋町Fで今も活躍されている。女性の工芸家や陶芸家等、一昔前までは跡目を継ぐと女性とは解らない雅号を用いることが多い。恵美子さんの雅号は「節」。人物や制作現場がTVにしばしば紹介されたと聞いている。しかし四代目がいなくて同町出身者のそれがしは無念である。

あれ、まだF、K、Lの三戸ですか。この調子じゃ何度か連載になりますな。(了)






Pnorama Box制作委員会


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