安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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拙著の新刊案内『奈良まち奇豪列伝』
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( 2015年 7月 4日 土曜日


●安達正興の新刊案内
手前味噌ではありますが、2年がかりでやっと奈良新聞社から刊行されました。印刷がおわり、帰省中の居候宅へ自分の取り分を搬入済みです。もっともそれがしはまだ見ていないのですが、なにしろ出稿してから出版までまる一年以上掛かっているので、正直もう「どうでもよか」と言う感じ。

四六版の単行本サイズ、ハードカバー335ページ。通勤電車野中でも読めるサイズ。
定価1500円(消費税別だったとおもいます)
古写真を多用しているので、スミ印刷、カラーは表紙カバー(写真下)だけ、倹約しました。


カバー絵は旧友、水彩画家の村田幸三氏をわずらわせました。ビルを外して明治の風景を描いて頂きました。

取次店から本屋さんに出回るのは7月中頃になりますか、その頃から奈良新聞紙上や関連折り込みに拙著の甲広告が出ます。といっても「誰もよまない奈良新聞」といわれるくらいですからよほど奈良郷土史に興味のある十数人のほかは売れる見込みの無いホンでございます。

●『奈良まち奇豪列伝』内容
今回取り上げたのは:
馬上チョン髷の漢方名医 「杏陰 石崎勝蔵」
呑んだくれの古美術写真師 「工藤 精華 利三郎」
大正ロマン 古都の草飛行 「歯科医 左門米造」
最後のばてれん 「ヴィリヨン神父」
付録「宇宙庵 吉村長慶の清国事情」から抜粋現代訳

四人の奇豪をとりあげ、付録に長慶原典の僅かの部分を拙子の言葉で独断意訳しました。
各奇豪の章にまずざっくばらんな筆者口上をつけて、導入部にしました。
下記は、石崎勝蔵の章の工場です。

●筆者口上
漢方医の診察を受けたことがありますか? 昭和ひとけた生まれ、80代の御仁なら経験があるとおもうのだが、ふたけた生まれの筆者には確とした記憶が無い。遊びともだちの中に決まった時間になると家に帰る子がいた。あるとき、その子が母親から台所で小さな陶磁コップに入った薬を飲まされているのを垣間見たことがある。見てはいけないものを見てしまった気持ちと、ニガそうに呑み込んでいた顔が脳裡に残っている。あれが煎じ薬だと知ったのはしばらくたってからである。「正露丸」や「葛根湯」が家庭の常備薬だったころの出来事だ。また「救心」はTVコマーシャルでよく見た記憶がある。T熊野丸薬万金丹Uを、T鹿の丸クソ万金丹Uとおもしろがっていた。
 
さて、筆者が漢方医・石崎勝蔵に興味をもったのは、自身が高齢者に仲間入りをしてからである。Tどうしてあん二千坪もあるな大きなお屋敷に住んでいたのだろうUというのは昔から気になっていたが、古ぼけた郷土資料をみると、石崎勝蔵は長者番付の常連である。漢方医ってそんなに儲かるものか……という実に低俗な好奇心から、他の調べもののついでに散見してみたのである。

するとどっこい、エライのだこの人は。生涯チョン髷を切らなかった奇人で評判の勝蔵さんだが、縦から見ても横から見ても、いくら粗捜しをしても汚点のシミどころか気配すらない。質実剛健、清廉潔白にして豪気な胆力、瑞穂の国の精神を体現する石崎勝蔵は奇豪の中の奇豪なのでした。
 
杏陰 石崎勝蔵は幕末に生まれ、御所の御典医だった福井貞憲に学んだ。つまり師匠は天皇のお脈をとる医師、当時の医師の世界で最高の権威に就いて学んだわけだ。

勝蔵翁は日頃からT日本人の病気は日本の国の薬草で治らない道理はない。山間には山間の霊薬があり、海浜には海浜の霊薬がある。何を苦しんで外国より薬を輸入する必要があろうかUと説き、明治維新後の軽佻浮薄な洋化の風潮を憂い、古来の大和魂としきたりを公私に貫いた。言葉だけではない。淡白で質素な食事、いつも和装で暮らした立ち居振る舞い、ふだんの生活がすべて伝統に則していた。

元結いを切らないのも和漢医師の矜持のひとつ、太平の風を失わず心に感得するのである。おそらく全国でも刀圭髷を切らなかったT最後の漢方医Uであろう。しかも全国に名の聞こえた仁慈の名医であり、和漢の詩に通じた風流人である。そんな名医とは知ってか知らずか、奈良まちの世間一般からは奇人の印象と入り交じった尊敬を得ていた。(了)






Pnorama Box制作委員会


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