●夏が来た
今日はもう月曜日だが、先週末から、陽が燦々とと照り始め一変して夏の天気になる。「夏が来た」気分が空一面に広がるようで純青の空に積乱雲が、小さいながらもわき立っている。土曜日はさらに日差しが強く、汗ばんで葉陰に移る夏になった。
先週からオスロに来ている。ソファーに凭れ壁一面の窓を透して、補助輪のついた子供自転車をこいでいる2歳の孫を見張っている。この孫は兄と姉が父とイギリス中部に行っている留守の間に、ゆっくりベランダを走れるので自転車を試している。ベランダは2階の南と西の両面に張り出していて、上の子は猛烈なスピードで自転車を走らせるが、2歳のCharleyは角を曲がりきれずに立ち往生、あるいは横倒しになり泣いてはそのたび「おじいちゃん、助けてください」だ。Can you help me?と時に英語,時にノルウェー語で、歳に似ず静かな声でいう。
おっとりベランダに出て面倒見るのが我が役目。しかし、飽きずにベランダを何周もするようになれば、Charleyも一台いる頃だ。しかしぴったりのヘルメットがあるだろうか? 姉弟3人がベランダを疾駆する凄まじさをおおうとどうなりますやら。
●夏の風景回想
西側のベランダから谷への斜面に家々やマンションがあり、谷底をローカル鉄道が走っている。駅の前後で甲高い汽笛をならして通りすぎるが、背後の山が反響装置になってつんざくデシベルだが、雑音のないこの辺りでは汽笛が唯一の音、習慣になれば日常のシルシに欠かせない音になる。
ソファーに凭れて見えるのは向かいの山、一定の高さで左右にながい緑濃い山だけである。この景色は少年時代、夏休みになれば行って過ごした田舎の家からの景色とよく似ており、山際の木々向こうには何があるのだろう、と何度も何度も考えに耽ったものだ。そして今、目の前の山を眺めては「あの山のこうはどうなっているのだろう」と感慨に更っている。
拙子の心証風景には、飛び交う小鳥の鳴き声もそよ風も昔の田舎、飛鳥の南端、吉野の北端時空を越えて繋がっているのであろうか、細かく言えば空気も樹木の種類も異なるが、ついあの田舎の家から谷地に下りる斜面と真向かいの山の風景に想いがいってしまう。ネットの空影響地図でわかってはいても、漫然と青空をバックに樹々が一本毎にくっきり見える緑の山を飽かずにながめるのである。(了)