安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


-------- ----------------------------------
奈良零れ百話/湯煙る昭和の銭湯
------------------------------------------
( 2015年 6月 15日 月曜日


●八百屋と銭湯は歩いて5分以内

ふろゆきのカンカン持って行く手のつめたさ

上の一句は、クラスの宿題俳句で先生が「とてもよい」と誉めて読み上げた句である。
その時の先生と教室から中学一年性のとき、いまは真っ白な髪のN君の作である。

この句を覚えているのは、やはり自分にもカンカンに手ぬぐいと石けんを入れて冬の風呂屋に行ったおぼえがあったからだろう。
拙子が中学生になる前からわが家に風呂ができ毎日、母がいない時は誰かが代りに風呂を焚いていたが、ときにはゆっくり風呂屋に行って、帰りに夏ならアイスキャンデー、冬はたこ焼きがおもいで深い。

もう少し時代を遡って戦後10数年、われわれ庶民は内風呂を持てなかった。よちよち歩きのころから一家で銭湯に通った。家から北と南に歩いて5分のところに風呂屋があり、奈良の市街部ならどの家からでも5分内にあるいて行ける風呂やさんがあったものです。

●「勇湯」と「大西湯」
拙子が行ったのは半田横町の「勇湯(いさみゆ)」と近鉄駅のひとつ北筋にある中筋町の「大西湯」である。大西湯と暖簾に書いてあったが、「コマはん」と呼んでいた。おそらく隣に大西さんの小さな小間物屋(化粧品の店)があったので風呂も「コマはん」なのだろう。

当時の「勇湯」には、片隅に電気湯という手を入れるとピリピリする小さな浴槽があり怖かった。いまでも電気湯は大嫌い。「大西湯」は明るく、タイル壁は富士山でいつも飽きずに見ていた。どこの富士山が一番良いとか、大人が議論していたが、拙子は大西湯の画しか知らない。ここは重い木桶が用意してあったようにおもう。7時から八時がピークで鍵の着いた木製脱衣ボックスがフルになるとかごに入れるのだが、時計や財布があれば番台に預ける。夕方早いほど空いていて湯がきれいである。

●廃業する風呂やさんとレジャー風呂
「勇湯」は二代目がまだ元気に頑張っているそうでまことに喜ばしい。「大西湯」も改装されて設備が充実していると聞いた。しかし、拙子が帰省中は、生まれ育った鍋屋町ではなく、たいてい平壌佐紀に居候するので、懐かしい風呂やにはおそらく60年ご無沙汰してしまった。すっかり変わっているのは分っているが、いきたいとおもう。あの屋台のたこ焼き夫婦、イッショウケンメイ働いていた赤児を背負った若夫婦は、生きておられれば80代後半か。成功するべくよく働く人だった。そのころの勇湯の兄さんも、毎日廃材を貰うため遠くまでリヤカーを押していくのであった。

戦後の銭湯はいまの客に通じない。勢い廃業に追い込まれたがといえ、奈良市外では3分の1が現在も営業しているろは経営刷新の努力による。見上げたものだ。日本人の風呂好きは文化的遺伝子である、世代がかわろうと大浴場は温泉地旅館から旅館の全て、ホテルに広がった。欧州のホテルにはプールに付設するサウナやミストがあるが、日本のホテルにはビジネスホテルでさえ、大型レジャー湯がある。また銭湯を大規模にした、奈良ではスーパー銭湯「ゆららの湯」が2カ所にあり、県下には公営の大浴場がある。この2月、芦屋温泉にいったが、露天風呂の種類が多くて驚いた。内風呂に満足できない人がいかに多いかよくわかる。浴室とバスが一体化した「ユニットバス」では飽きますわな。もし歩いて行ける銭湯があれば、みなさん是非利用しましょう。






Pnorama Box制作委員会


HOMEへ戻る