時事、世界のニュースを追っておもうところを書き殴ってきた。それがこのコラムを始めた15年前の動機であり、目的であったが、いまや世界の通信社が発する第一報が日本語でネット新聞になる世となり、評論,論評が氾濫し、それがしのコラムはもはや無用と自覚している。
身体は丈夫でも、頭はもうろくしている訳でこの事実をわきまえ、
身近なできごと、30年生まれ育った過ぎし日の想い出、奈良の社寺のことを「奈良零れ百話」として綴っていこうとおもう。
本日は連載から離れて、当地の身近なできごとです。
●日本語の秀才
1986年、ベルゲン大学で日本語基礎課程がはじまったとき創設者の故ヘンリー・ヘンネ教授に「君、来れるだろう」(旭日章を受けた東洋学のパイオニアはそう言う言い方をする人)と、日本語を母語とする講師に引き込まれた。当時同じ大学の地質学部にいたので、便利でもあるし、当時は日本人が少ななかったためである。
基礎課程は2年、第一期生の初日は50人を越す生徒数だったが、1年をまたず20名くらいになり、2年後に筆記,面接試験を及第、単位を得たのは12人であった。結構厳しい。そのなかで超優秀な学生が二人いて、いまベルゲン大学日本語課の責任者であるBenedicte Irgens と、数年前同大学助教授に移籍したHarry Solvang の二人である。
●ノルウェー人による初の「日本語文法」書
12日金曜日のお昼から、ベルゲン大学の日本語課を中心に、日本語文法『なるほど』の出版記念パーティーがあった。著者は第一期生のハリーさん、前述した秀才のひとり、出版の集まりは学科主任のベネディクテさんの企画と司会。日本語学習者そのものが少数であり、出席者は、拙子の二期生で経済大の日本語准教授Kristen Ryggほか、当地の日本語教員の方々と日本語学生の30人くらい、合間にベルゲンフィルのヴィオラ奏者のりこさんの日本歌曲/童謡の演奏があり、ジュースで乾杯し、思った通り寿司が出ました。
ハリーさんの日本語文法書『なるほど』は544ページの大冊でこれが第一巻、初秋には第2巻が刊行される予定という。日本語に関するノルウェー人の論文はすくなからずあるが、文法書としては本諾最初である。(諾とはノルウェーの日本語表記・諾威のことでダクではなくラクと読む)
●ハリーのこと
ハリーさんと広島大学で外国人に教えるための日本語という分野で、日本でも初めて博士号を得た外国人である。留学中に広島八丁堀で一緒に呑んだ。こういうとき、日本人には言えない疑問や不思議に思う事を拙子にぶっつけてくる。都合、拙子のクラスにいた4ユ5人の留学生大阪,東京、奈良であったが、一様に饒舌になってあれこれ、嫌な出来事なんかも拙子にはノルウェー語で他人に遠慮なく言いやすいのか、聞き役に廻ったものでした。
余談:広島ではドジョウが名物だと彼に云われ、一応食べたがあれは一度でよい。少年の頃、田舎で取ってきたドジョウを金だらいに入れてシジミやハマグリのように土を吐かせる。食糧難の頃、それを焼いたり鍋にして食べるのだが、いやでいやで、ほかにも生きたフナを火鉢で焼く「踊り食い」があり、それらのことをこもごも思い出すのか、ドジョウには食指が進まなかった。
また、彼がけいはんな学研都市の研究機関に勤めていた頃、日本で結婚した彼の家族と回転寿司屋で会い、この時はお互い大声で論争になったものだから、畳の部屋といえ隣迷惑甚だしい。奥様が止めに入って・・まそんな愉快な想い出に花が咲きました。帰り際、彼の部屋で一冊献本をいただき、漢字で謹呈−拙子の名を漢字で違わずかいてくれました。
そのとき、、「行ったら、行ったで、いいんですが」という一文例をしめして、これを文法で説明するのが難しいとこぼしていた。たしかに何の気もなくふてくされたように口にすることばですが、改まって考えるとわからないものですね。
左様、1986−87年の2年間はそれがし45年のベルゲン生活を通して実りある人生、喜びの人生になりました。