誕生釈迦仏というのは、いくら童子といえ仏の特徴である螺髪、長い耳、長い腕、釈迦如来の顔貌を童子らしくアレンジして造られている。観想するときは、くれぐれも公園にあるような児童の像と比べて「稚拙」などと早計してはならない。
●愛知・正眼寺の誕生釈迦仏
重文、像高8.2cm, 相当に厚く鍍金されているのか、キンピカの金銅仏です。台座は後代のもの。天を指す右手は、チョキの指で敬礼しているよう、口元が弛みキュートである。足は赤ちゃんのよう。腰巻き(裳)の結びがいかにも子供らしく、仏師はおおらか人におもえる。
正眼寺(しょうげんじ)というのは、愛知県小牧市にある曹洞宗の禅寺である。もとは一宮市にあり、足利義光の庇護をうけて七堂伽藍を有する大寺院だったが北条氏のあとは廃れ、元禄2年に現在地に移転した。
はてさて、室町時代建立の寺に7世紀中頃飛鳥時代の誕生釈迦仏があるというのはどうしたわけか。推測するに、この寺は小松天皇の発願というから、天皇家が持っていた可能性がかんがえられる。確証はまったくありませんので、これはそれがしの空想いの楽しみで。
止利仏師派の作風で、法隆寺のもの(盗難のままもう出てくる気配なし)と同時代の鋳造ですからおどろきました。実物は国立博物館に寄託・展示されており、レプリカが小牧市歴史館(小牧城)でも見られる。
●宇陀榛原・悟真寺の誕生釈迦仏
重文、台座から右手の指先まで13.9cm, 飛鳥時代の名品。この悟真寺も曹洞宗、1451年の創建当時は七堂伽藍をもつ規模でしたが、焼けたり山崩れで埋まったり、安政の頃に再興されて現在のような山寺になった。とはいえ、宇陀の檀家寺には裕福な寺がすくなくない。また宇陀の寺は桜の名所と同義語みたいなもので、ここも頭上に押しかぶるようなしだれ桜がつとに有名である。
さてこの古代誕生釈迦仏の名品が悟真寺にあることは伝わっていたが、世間に出たのは戦前の昭和12年3月、今から80年前のことですから1200年眠っていたことになる。それまではその他大勢の小物にすぎなかった。以下、しばらく高田十郎著『奈良・?……0/
宇陀郡内牧村に招かれて大和国史会の田村吉永、奈良学を築いた高田十郎、仏師で美術院主事の明珍恒男らが史跡調査を行ったときのことである。佛隆寺その他を調査後、この悟真寺を調べたのだが、一見してまがいもなく奈良時代前期とわかる逸品であったという。
山崩れの際に両足が足首から折れていたほかにキズもなく、幸い難なく修復できる折れ方であった。面相の無邪気さ、あどけなさは類がないと評価。「1300年を経たわがくに最古の遺品となろう」と、明珍氏が談話するやたちまち随行記者諸君が駆け出した。郵便局へ電報を打つためである。あとの調査にはついて来なかったそうで、スクープが取れたらあとはどうでもよい記者根性は、携帯になった今もかわりませんな。
仏師・明珍氏は「国宝製造人」といわれた仏像修復と鑑定の第一人者で、仏像の論争なんかもこの人の一言でケリになった。戦後にメディアが追っかけたのは橿原考古研の末長雅雄、遠慮気味だが同志社の森浩一、現在では奈良図書情報館の千田稔さんになるのかな。
本題の悟真寺釈迦仏に戻る。現在は国立博物館に無期限に寄託・展示されている。鍍金は剥落しているが框座(かまちざ、台座の最下部)まで一体の銅製である。つまり原像のままですからすんなり観賞できます。賢そうな子供らしい笑みが見る物を和ませ、成人並みの螺髪、腕釧(腕輪のこと)をはめ、特に腕をスッと伸ばし直立不動の姿勢で天下を示す様子があどけなくしかも品がよい。