安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話/町名の読み方
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( 2015年 6月 7日 日曜日


●破石はワレイシかワリイシか
市内バスに乗って、運転手さんにバス「ワレイシに行きますか」?と訊ねると、「ワリイシに行きますが」と返ってきた。「破石町」をいまはワリイシチョウと言うらしい。しかしそれがしの少年の頃、高畑町の奥の住宅の切れ目にお住まいの母の知り合いのところへ兄妹とよく行った。春はつくし、秋は柿を取りに行ったのだが、バスの車掌さん(その頃はどのバスにも必半開きの黒鞄をベルトに垂らしていた車掌がいた)もたしかに「ワレイシ」と発音していたのだが。

破石町の由来は「坊目拙解」によると西大寺東塔の心礎(中心柱の礎石)が宝亀元年(770)に焼けたあと、30数年かけて焼いて割ろうとした。それも酒を30斛(300升)かけて焼いたという。素人考えでもアルコールを掛けて焼くと高温になりウンと割れやすい。破石のあたりは今でも春日社家が多いところだが、この辺りでお神酒をつくっていた。美味しい清水がるので奈良の名酒の発祥地といわれる。それで西大寺東塔の心礎をここまで運んでお神酒で割ろうとして割れず、その石、実はあの辺の民家にこれがそうだと言う割れ筋が幾つも入った残りがあるのですが、マユツバでしょうね。あれくらいなら鉄槌で軽く割れる。

一方「奈良晒し」にはこの辺りに石が多かった、とくだらない由来で片付けているが真相だろう。春日山も太古の火山活動でできた巌が下にあるので、ゴロ石があるのは当然。焼け落ちた新薬師寺の伽藍があったところですから、基壇の石がゴロゴロしていた事も考えられるが、破石とは自然に毀れたゴロ石のことであり、人工的なら割石である。それがしは春日砥などの石が川沿いに流転したり、土砂崩れで落ちてきて、この辺りで溜ったものとおもう。

したがって破れた石の意味で「ワレイシ」が歴史的にも語法でも正しく、割った石の意味「ワリイシ」は間違いである。でも、もう元へはもどらんわな。

●オッシャゲ、インギョマチ、ナシハラ
押上町を「オシアゲチョウ」と大抵の人は呼び、正式な呼称でもあるが、拙子の住んだ近所では20年くらい前、ごく最近まで「オッシャゲチョウ」であった。この呼び名は、京街道を下って奈良に入ると、さいごに「押し上げる」坂になっているのでこの名がついた。平重衡の軍勢が押し寄せたときや、維新後の奈良に京から赴任した久我大納言通久(みちつね)一行が興福寺にやってきたときも「オッシャゲ」から興福寺にはいったのである。だがそれを言えば、重箱の隅を突くようでバカにされるわな。

陰陽町は陰陽師(おんみょうし)が集まっていた奈良まちの一角である。暦を作り、呪い祈祷などもやっていたのであろう。陰陽は起源の韓国でもインヤンであり、和語でインヨウが正しいのはわかっているが、町衆が発音する時には言いやすいように変化する。「インニョマチ」と言う人もいたが語感がよくない、拙子は「インギョマチ」を使っていた。

内侍原はありがたいことに『ナシハラ』が市の公称である。奈良女子大、即ち奈良奉行所の西通りであるから、侍が住んでいたとおもったら大間違いです。もとの地名を「梨子原」」といい、平城京二条通り二接する梨子原郷がここで、梨子原宮(ミニ離宮)があり、奈良・平安時代の貴人が梨狩りをしたところ。したがって奈良市の町名では最古といえる。ひとしお力を込めて言う、「ないしはら」ではありませんぞ。パソコンでも「なしはら」と入力すると一発で内侍原と変換されるが、「ないしはら」ではいつまでたっても内侍原と正しく変換されないのです。(了)






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