安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話/三月堂・不空羂索観音
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( 2015年 6月 2日 火曜日


●仏像疎開
戦後70年を迎えて、戦争の歴史を振りかえるとともに、当面する高齢化問題など語られるテーマは様々であるが、玉音放送を実際に聞いた世代は、高齢化社会の今でもごくわずかであろう。まだ4歳だった小生にも覚えがない。あまり大仰に考えないことにしている。今回は三月堂についてですが、ついでに仏像疎開のハナシでもしようとおもう。

終戦末期、B29の本土爆撃がはじまると、奈良の仏さんたちは難を逃れて山間部に疎開していった。国宝,重文などは強制分散疎開の通達があったからで、行く先は柳生や宇陀の山間部にある寺や、民家である。東大寺、興福寺、法隆寺など行く先はそれぞれ決まっていたようであるが、こっそり行われたのでもちろん新聞記事にされなかった。

奈良市内は爆撃をうけなかったが、少し離れた場所、や県内ではあちこちに焼夷弾が落とされている。仏さんの疎開は当然で、しかし仏像を梱包.運搬する技術はなかった時代であり非常手段ですから、藁と布でくるんで人夫さんが数人で大事にしずしずと、無言で山道を担いでいったのである。平城遷都のときは奈良の寺々に引っ越した飛鳥の仏像がすくなくない。このときはきっと豪華な道中だっただろう。だが終戦末期の疎開は密やかに行われた。

●三月堂(法華堂)の仏たち
現在は堂内諸仏のうち六躰が移されているが、当時は全部で天平仏14躰が、安置されていた。どうやってあの大きく複雑な本尊・不空羂索観音を堂内から出したのだろうか。日光/月光菩薩は等身大よりやや大きいだけで持ち運びは容易でも乾漆は強くない。二像が包装を待つ間、戸外に横倒しに置いてあったという。

柳生への道中、米爆撃機が低空に飛来して頭上に見えた。人夫さんがあわてて道端に担いでいた「お身」を移そうとして、躓き「お身」をガタッと置いた逸話がつたわっている。

それがしは三月堂の北口、南口と外廊の西口が開扉され、中の仏像群が見えていた覚えがある。以前は虫干しがあったようにおもうが、廃止されたようだ。興福寺の東金堂(五重塔の南隣)が虫干ししているときは堂内が全部丸見え、観光客がいなかった時代だからできたのだろう。


三月堂(法華堂)、左に奈良時代の「正堂/しょうどう」と右に鎌倉期時代の「礼堂/らいどう」を繋げて一堂とした。
ために通常なら不可能な傑出した姿。違和感の無い美麗な流れ。外廊に段差があるのが玉にキズどころかとんびが鷹を生んだ
結構なアクセントになっている。

●不空羂索観音
久しぶりに今年の初め中に入ってみた。須弥壇の外側は板張りなので、靴を脱いではいる。眼が馴れるまで薄暗い。目が慣れても御本尊の不空羂索観音は人相がよくわからん。大きいので下から見上げるだけで、大きな仏像は往々にして美術写真で干渉する方がよい。そうすれば光背のすばらしさ、額に縦の眼がある三目六臂がよくわかり、参観者では見えない高い位置からの映像は容貌がよくわかる。さらに合掌した手の中に水晶珠を隠し持っているなど参観料を払っても見えるものではない。火煙が施された放射状の光背、2万数千の宝石で飾られた宝冠など、これぞ華厳の教理を具現したものと感じ入るのである。

とはいってもです、一度は自分の眼で全体像を見て八本の腕を確かめておくべし。天井の精巧さと豪華な天蓋、技巧の極致たる宝冠、おおらかな曲線と全体のバランス、こびり付いた埃と鮮やかな金とはげ落ちた金の部分がまたよろしい。堂内でこの本尊だけが黄金仏であり、壮麗かつ威厳に満ちている。…といった実体験が必須であることはいうまでもありません。(続く)



三月堂の諸仏。古い写真ですから日光・月光の脇菩薩があり、うまい具合にヌーボーとした梵天・帝釈の二像が隠れている。






Pnorama Box制作委員会


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