●阪神・阪急・京阪に触発されて奈良にも電車を
いまは近鉄だが1914年に上本町(上六)−奈良間が開通したときは「大阪電軌鉄道」(大軌)という社名であった。先に阪神、阪急・京阪の開業に刺激されて、奈良乗り入れの推進は大阪と奈良の実業家が一体となって、当時の運輸省へ出願し、明治40年(1907)に許可され。その後、奈良駅をどこにおくかで一悶着があり、奈良駅がの一押しで結局現在地に決まった。そこで県は大正2年、条例に基づきまず奈良市議会の意見を聞くというルールを踏んだ。
しごく民主的な手順である。そこで賛否を問う市議会が開かれ、賛成派と反対派が侃々諤々の激しい討論の結果、賛成14票、反対15票で否決されたのです。このとき、長慶さんが反対意見を述べた。……ということを最近知ったので、長慶掘り起こしに一役果たしたと自任するそれがしである。書き留めておきたい。
●奈良市議会の意見を聞く
宇宙菴 吉村長慶は明治31年(1898)に奈良市制発足と同時に市会議員になっている。この時は納税額によって決まる「制限選挙」で市会議員は議長を含めて30人である。みなさん議会討論に熱心で、当時の議事録を調べたとき、市役所では「東寺林町の市役所が全焼したとき、市議会関係の書類も類焼し何も残っておりません」と、まぁこれは楽な逃げ口上の面がなきにしもあらずだが、言われたら諦めるわな。ところが、近鉄や、近代郊外電車の歴史を研究している人にはチャンと解っていたんですな。奈良県図書資料館の郷土資料室が『大阪電気鉄道一件』に所蔵していたのです。ということは全焼前にこの日の議事録は調査のためどこかに持ち出されていたのだ。
安彦勘吾先生が15年前にいろいろ行政録を調べて大軌鉄道に関する論文を書いて居られたなんて存じませんでした。以下、この市議会会議録にある討論の様子は三木理史(まさふみ)奈良大学教授の論文を下敷きにしております。
●近鉄乗り入れ反対した長慶さん
大正2年7月21日の議会録によると、吉村長慶:『電車というものは大都市には必要でも、奈良のような小都市には不要。電車の通る里道、沿道筋は砂煙がまいあがり、商売上、利益にならない』。とまあ現代風に置き換えればこのように反対した。おそらく長慶さんには『日清事情』という現地調査の評論がある。日清戦争後のシナに渡り、上海、北京の不潔さ、乞食の群れ、また歩くにつれて砂塵がまいあがる北京の道路を、「あたかも火鉢の中を歩くが如き」と書いている。油阪からの土道には商家や寺があり、ここを電車が通れば・・あの北京をおもいだしたのだろうか。当時の奈良にアスファルト道路はありませんから、毎朝家の前に水を撒くのが日課だったころです。
市会の論点は、乗り入れ地区が東向きであったところから、国鉄の客で既得権のあった三条通の商店や多くの駅前旅館、人力車や案内人の懸念を代弁する反対意見が多かった。産業界に地盤をもつ立憲政友会が観光都市をめざして賛成派にまわり、立憲国民党の藤田寡平治ほかが反対するという図式は政党争いの面が強い。藤田議員は珍しい先駆的環境派で、「奈良公園は天然の大公園として保護し俗化させなさせてはならない、浜寺や箕面と同じに論ずべきではない」という論旨。関電の母体と電気代値下げ交渉を率いた。
鍵田忠治郎議員(忠三郎、忠兵衛と続く奈良政界の大立て者)は大軌の取締役していた賛成派である。長慶さんの反対理由はたいへん個人的で、無所属で通しただけのことはある。(了)