●南都焼き討ちに淡白な奈良の人
大仏を含め東大寺が幾多の天才人災、戦禍を受けてその都度再建されたことはよくご存知でしょう。治承4年(1180)、平清盛指令で4男の重衡による南都焼き討ちや永禄10年の三好・松永の乱で殆どの伽藍が焼け落ち、焼死した僧侶が多かった。で、これらは有名な事件であり、零れ話にならのいので書きませんが、奈良の人は坊さんも含めて『大事件』というものの、焼き討ちの張本人に全然怒った様子はありませんな。
平の重衡は一ノ谷の戦いで捕らえられ鎌倉へ護送されたが、源氏の世になって南都衆徒に引き渡され木津川で斬首された。それで一巻の終わりというか、このときも恨みを晴らす意趣が主で、仏罰とか宗教的な意味合いは皆無である。そもそもの原因は寺院側が寺領荘園を1ミリも放さず税金免除を保持するため政争に明け暮れていて、多数の僧兵を抱えて一戦交える状況だった。だから焼かれても「やられた」無念が先立ち、寺院側にも非があると知っていたからだろう。
地震で首が落ちたり(855)、台風、落雷での被害も少なくありません。大仏に関していえば、最初の鋳造はどっちにしろ10年持たない粗造品である。その話をしたい。
●「仏後の山」、レリーフになった大仏さん
大仏鋳造が完成(768)していらい、10年を経ずにあちこちに亀裂があらわれ、修理に追われる20年が続いた。そんなある日、背部が大きく破損し、右手が落ちたのである。すわ一大事、東大寺側と朝廷の勅使が雁首ならべて、どうしようかと何年も無策だったというからおどろく。そのうちに大仏さんが左に傾き、背丈も縮んだ。それでも修繕方法が決着せず、もはや修理不可能になってから大仏さんの背後に小山を築いて支えることで合意。後方の柱を8本切り、蓮華座の横から盛り土して蝋蜜で固めたという。現在の1.5倍ある大仏殿の柱8本を切り、築山して大仏と大仏殿を支える大手術である。
これが、かの南都焼き討ちにも残った「仏後の山」である。だが大仏さんはもうボロボロに崩れ、勧進上人・重源さんが再建に大活躍するわけです。
●大仏さんは崩壊と再興の数珠つなぎ
南都焼き討ちに残った「仏後の山」の上に、宋人鋳物師・陳和卿が溶鉱炉を置いて大仏の修復鋳造に利用した。大仏修復後はに、この見てくれの悪い小山はお役目ご免で取り出されてしまいます。鎌倉の東大寺再建は運慶快慶ら優秀な仏師や、大工を登用して、重源老僧が見事に大伽藍を再興した。
ところが今度は松永久秀と三好三人衆の合戦だ。日本人はもともと現代人がおもうほど平和な民でないのです。武士という戦争集団とホワイトカラー族を合わせた階級が何百年も実在していたのですから。それを武士道などと飾らない方がよろしい。このときの兵火で大仏殿が焼け落ち、大仏さんの頭も焼けて融け落ちた。奈良の 篤志家が木組みの上に銅板を貼付けた仏頭をつくり、仮の大仏殿を建てて間に合わせたが、台風で吹っ飛び、大仏さんは張り子の頭を露座にさらす醜態が江戸中期に再建されるまで続いた。
●ちぐはぐな頭と体
だから今見る大仏さんは「三度目の正直」なのです。体部は鎌倉修理時代のものですが、頭部は江戸時代の新作です。江戸時代になると銅の品質が向上したので、実際に見ると、頭をすげ替えたようなチグハグさ感じられ、どうもしっくりしない。前回書いたように人相がよくない。
鎌倉の大仏は座禅のように膝に手を置き(阿弥陀印)、俯き加減でコックリ居眠りしているに拙子は見るのですが、『おお、よう来なすった』と参観者に語りかけているようでもあり、おちょぼ口が可愛い。奈辺が「……美男におわす夏木立かな」と詠んだ与謝野晶子の感性なのかなとおもう。
奈良の大仏さんは、正面から撮った顔写真が少ないのはもちろん、銅質のチグハグさと天平仏に見えない相貌をクッキリ見せる写真がすくない。次の古い美術全集にある写真はかなりハッキリそれが解る。頭のところはテカテカ光っています。
明治30年末に来日したブライアンという米副大統領が、大仏の首が新しいのを見上げててこう言ったそうです。「これはよい教訓だ。身は老いても頭は新しい」(奈良百話・高田十郎より)