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奈良零れ百話/陸奥で金が出た!
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( 2015年 5月 11日 月曜日 )
●大仏の鍍金をどうするか
大仏鋳造はなんとかなりそうだ。だが鍍金をどうするか、聖武亭は中国から砂金を輸入しようと、新しく遣唐船2隻を発注し、天平18年には進水した。しかし黄金交易のため遣唐使派遣は必要な資金も人材もなくたち消えになった。勧進僧の行基が82歳で大往生、飢饉が蔓延し、お先真っ暗な世相とではあったが、大仏造立は細々と続けられていた。 ●出た、金が出た ここで前回に「鋳造師や仏師は名無しさん」と書き飛ばしたのであるが、名はわかっている。大仏師国中麻呂(くになかのきみまろ)、大鋳師高市真国(たけちのまくに)らが工人たちを統率した。どちらも奈良の人だが百済の帰化人の家系である。 さて聖武帝は金が出るよう、産金祈願を各地の寺社に申し付け、自らも地蔵菩薩に祈ったという。当時東大寺のトップである良弁さんは吉野金峰山の蔵王権現に祈請したという逸話が後年,鎌倉時代にできたそうです。神も仏も地蔵、権現何でも良いのだですな。帝も高僧も『神頼み』となれば八百万の神様に拝みます。華厳であろうが、俗信であろうが気にしない。 それがです、天恵というか青天の霹靂のように僥倖が射したのです。陸奥の小田郡で大量の金が産出したのですな。黄金900両が献上された。うますぎるハナシですが史実である。それというのも、わが国に黄金は産出しないとされていたため、陸奥の国守百済王敬福から早馬で平壌宮に吉報が届いたときの帝の喜びは天にのぼる心地だったでしょう。年号を改め「天平」に「宝の」一字を付け「天平勝宝」とした。 また報賞としては陸奥の国に3年間免税、恩賞として敬福はじめ産金関係者の多数に飛び級で位階を授け、金が見つかった山の所有者である神主さんも叙位された。陸奥にいた帰化人の金師さんは日本の貴族に叙位されている。賞に位階で応じる方法は為政者には一銭もかからない安上がりの策であり、王侯貴族社会であった近代以前の欧州でも使った手法である。 陸奥の涌谷から出る砂金は、続々と献上せられ、大仏用途から余った金は各地の仏像の鍍金に使われている。 ●大友家持の歌 産金の幸運を謝するため、聖武天皇、光明皇后、皇太子をはじめ左大臣橘諸兄などの臣下一同が東大寺に詣でた。このとき 「三宝の奴」で始まる宣命を諸兄が代読した恩のだが、越中の国守であった大伴家持が数日過ぎてこの宣命を知り、感激して読んだうちの一首: 天皇の御代栄えむと東なる みちのく山に金花咲く (万葉集4097) ●黄金山神社 陸奥の小田郡の現在地、宮城県遠田郡涌谷町黄金迫(こがねはざま)の黄金山神社。境内は「天平産金遺跡」として国史跡に指定されている。 神殿のうしろに陸奥国府の役人により建てられた仏堂があったとされる。鎌倉初期にはゴールドラッシュも終り、土地の人々が砂金獲得から農業へと転じて仏堂は消滅した。現在の拝殿は江戸時代末期に再建されたもの。 |
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