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奈良零れ百話・大仏さん
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( 2015年 5月 9日 土曜日 )
●船は帆でもつ,奈良は大仏でもつ
こんな諺があるとは思わないが、奈良に大仏さんがいなかったら・・と想像すると冷え冷えとする。大仏さんのお陰で奈良は一目置かれているのであって、阿修羅やバさラ大将ほか国宝をいくら並べても知名度において『奈良の大仏』に勝る売り筋はない。 世界の絵地図で各都市を代表するアイコンハパリナラエッフェ塔、ロンドンはビッグベン、ニューヨークは自由の女神、モスクワなら赤の広場、北京は紫禁城、東京は…スカイツリー? 京都は…舞妓さん? そこへゆくと奈良は大仏と決まっている。で、大仏さんのどこがいいかと改まると、答えに窮す。ぶっちゃけた話、大きいだけがとりえでしょう。ただしその大きさが尋常ではないので、世界広しといえどもライバルがいないのである。 人はどう大仏さんと向き合うか、大半は珍しものがりの付和雷同にすぎない。人気があるから我も々々となるわけで、それだけ地元が潤い、大仏さまさまである。それがしにはゲテモノを見るがごとき感慨しか浮かばない。宗教でもなく美術品でもない。だからこそ「奈良は大仏でもつ」普遍な存在になりえたのであると思う。 ●聖武天皇の発願、お道楽 よくもまあ当時の日本人たるや、天皇から僧侶、巨大な銅像造りには匠、工人たちが鋳造技術の総力を結集して人跡未踏の仏界顕現に挑んだのである。この大仕事に費やされた役夫は計数万人にのぼるのだろう。だろうと創造で言うのは、『東大寺要録』や『続日本書紀』ほか古文書には使用した銀、鍍金のための金の量など詳細で、かつ発願した聖武天皇やお公家方、良弁等の坊さんに言及しても、仏師、鋳造師、工人らは名無しさんである、数のうちに入っていないのだ。 奈良県立万葉文化館に展示、大仏鋳造の再現模型 天平17年(745)いわば聖武天皇の独断エゴ、つまりお道楽で帝(みかど)により発願されたのですが、大仏造立の詔(みことのり)はさすがに立派です。漢文で書かれておりますが、これしきは拙子でも読める。なんでも天皇、皇太子、皇后ほか公家さんが手ずから土を運ばれたというから、優雅なお道楽ですな。そうやって国中の金銀銅を使い尽くし、奈良の都が疲弊したのですから桁違いのお道楽である。拙子は、聖武帝詔の万民に対する心情告白に加えて、天皇政治の確立が目的であったとおもう。 鍍金が終って金色の毘盧遮那仏が完成、大仏開眼供養会が行われたのが天平勝宝4年(752年__年かかった。しかし聖武帝は平城に来るまで政情不穏につきあちこち放浪しておられ、紫香樂宮(現信楽町)の頃に詔を発して大仏建立の実験を始めたので、構想と実現可能性について3年の熟慮期間があった。 ●大仏のサイズ 最も普通サイズの仏像を「丈六仏」といいますね。常人の倍とされる高さ一丈六尺(約4.8m)ですが奈良の大仏さんはお座ったお身丈が五丈三尺五寸=座高16m余りと言われていたが、実測すると15mないらしい。ま、どこからどこまで測るかの位置でバラつきがあるだろう。顔が5m近くもあるので、頭でっかちであるのがよい。だいたい仏像は6等身ぐらいで、胴長短足で親しみやすい体躯にできている。手が大きく腕が長いのは人間と違う仏たる所以である。 ●大仏の重量 いつも気になることで、大仏の内側は木の心棒が縦横に入るガランドウといえ、相当な厚みがある。仏体が250ォと台座が130ォ、合計380ォの銅でできている。この重量は最大の航空機エアバス380の巡航重量に匹敵する。大仏殿はエアバスの格納庫にあたるわけだが、こちらは木造建築の芸術品である。 |
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