安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話/東大寺南大門
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( 2015年 4月 15日 水曜日


春日野町の四辻、バスの大仏前を北に折れると東大寺南大門が姿をあらわす。

●大きい!
小さい頃から見慣れているせいか、逐一考えてみないうえに増えすぎた観光客がしゃくに障ってこの偉大な南大門に畏れを失って久しい。

少年の頃、公園で遊びほうけて帰り道、人気のない黒々としたこの巨大な門は恐ろし気であった。天平の頃建てられた本来の南大門には両横に塀があった筈だが台風で二度倒れ、平重衡の南都焼き討ち(治承4年.1180)により、南大門は焼けていないが台風の跡再興出来なかったのであろう。いま見ているのは鎌倉期に俊上房重源によって大仏殿が再建された一環として再建(1203年完成)された。

いつのまにか両袖の築地塀がくずれ、しかも門には扉がないから果してこれが門といえるのか。実用にならなくてもかまわないのかしら。無用の長物これに勝るものなしではありませんか。少年の頃、鍋屋町の我が家から水門町に出て、南大門の横っちょを自転車で走り抜け登大路を猛スピードで走り下り、旧県庁舎の角を北に曲がって帰るのが、自転車散歩の1コースであった。その頃、タクシーも観光バスも南大門の横を抜けて大仏殿の左にあった交番の横に駐車していた。

年金爺さんになったいま、「よっく聞け!これこそが常識をゆるさない『華厳の一大モニュメント』とであるぞ」と人にはえらそうに告げるが、心中ようわからん。しかしわれら先人が穢土荘厳のため成し遂げた木造建築技術力に、おのずと畏敬の念にうたれるのです。


観光大衆であふれる昨今、仏像鑑賞とはちゃんちゃらおかしい。景勝は自撮りの背景にすぎない。

正面に懸けられた「大華厳寺」の額は一見してわかるが昭和後期だろうか、昔は何も無かった。しかし天平の建立時には「大華厳寺」の額があったとされるの懸額には賛成だが、字体が合わないのはどうしょうもない。

鬼面ひとを驚かすように、奈良の大仏さんを拝観参拝する人々にまず南大門でギョっとさせ、改まった気持ちで門内に入るよう仕向けるのが目的なのかな、とにかく大きすぎる。高い石段(この基壇は奈良時代のまま)をのぼり、すり減っても太い敷居を跨ぎ上を見上げると柱組が上層の天井裏まで見通せる。壮大な高さに圧倒されるもシンプルな木組みの繰り返しは美しく軽快でさえある。



●壮大にして軽快な骨格
なんでも重源さんは地震や台風に倒れない方法でしかも安上がりに造ろうと、3度も宋に渡って調べた南支那の建築仕様である。これを大仏様とか天平様と呼んでいるが、起源は中国大陸である。

花崗岩の基壇は高さ4m、その上に直径90高さ21。の柱を問面6本、側面3本、計18本を建てる。
各柱は6層の貫(ヌキ)が交錯し、一部は肘木に伸びて「挿し肘木」となる。肘木は六手の大仏様。
隅柱の軒を支える肘木は三方に出ている。
 






Pnorama Box制作委員会


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