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奈良零れ百話/氷室神社
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( 2015年 4月 12日 日曜日 )
●氷室神社の奥は人の入らない鎮守の森
奈良市内の神社は春日大社を別格にして、観光スポットとしては漢国神社(かんごうじんじゃ)、率川神社(いさがわじんじゃ)と氷室神社であろう。この三つの神社のなかで、あまり気付かないとおもうが、春日野町の氷室神社が桁ちがいに広い。 登大路町の東端は下下味亭(ビル2階のグルメ喫茶、かやく飯の旧店風情は消滅)までで、そこから、東大寺駐車場に左折する自動車道まで幅があるが、奥行きはもっと深い。本殿の後ろに広がる「鎮守の森」は見えず、むやみに立入できないので知られていませんが、吉城川までが氷室神社の境内なのです。奈良時代にはもっと広く、公会堂あたりまであったという。 「下下味亭」が西南の境ですが、その奥の西側は吉城園です。県が買い取って吉城園になる以前、由良小一郎氏の家族が住んでおられた頃に母と家族付き合いがあったので、少年の頃何度かお邪魔しては、茶室裏の芝生から、鬱蒼とした森を探検して遊んだものです。そのときどんどん奥に分け入り、板塀の隙間を抜けると氷室さんに出る。この由良邸〜氷室の森は人の来ない場所なので、蝶々や昆虫がいっぱい、夏にはこの私有地内を流れる吉城川の部分は源氏螢が 乱舞していました。氷室神社の公式HP http://www.himurojinja.jp/ にある境内図も森の部分はボカしてある。 ↑氷室神社、春日野町に面した鳥居 (公式ホームページより) ●献氷祭 氷室神社と名のつく社は関西以東の各地にあり、氷室山、氷室池、氷室川など氷室を冠した地名も多い。字の通り「氷」を運んで保管するヒンヤリした室(ムロ)のこと。「枕草子」に貴族が夏にかき氷を食べる話は、比叡山あたりの氷室から運んだのでしょうか。 奈良氷室神社の由来については、同社発行の「なら氷室」に詳細な学術的研究が連載されているので、それがしは黙る。(500円以上奉賽の方には全号八冊頂けます、なんと良心的であることか) 完全にダンマリを決め込んではコラムにならないので、ざっくりと申し述べると、吉城川の上流に氷池をつくり、厳冬一番厚く凍った氷面を切り出して氷室に貯蔵したという。その氷室がどこにあったかいまとなっては判らないが、とりあえず氷室神社の本殿あたりとしておこうか。初夏から初秋まで宮廷に献上したという。和銅4年(711年)に氷室神社が氷の神様を祭って造られ、平城京へ勅祭と献氷祭が行われたが、平安京遷都によって宮家の後ろ盾を失い、衰微したのはしかたない。清少納言が奈良時代の人であったなら、日本最初の「かき氷」は奈良氷室神社が献上した・・となったのに残念である。 明治45年に献氷祭が復活、現在は5月1日に芸術的な氷柱作品を奉献し、舞楽が演じられている。冷蔵冷凍業界や蓄熱業界をスポンサーに繁盛しております。 ●南都楽所 奈良時代に建造された南都の寺社は、概ね藤原氏の創建ですから、氷室さんも興福寺の領地にあり、春日神社との結びつきも強かったが、古典芸能では各社寺互いに協力しあって、「南都楽所」が平安時代に形成された。そうでもしないと大勢の楽人舞人を要する大きな法会ができないプラクティカルな事情があった。ほかに 「京都楽所」、浪速に「天王寺楽所」があり、合わせて「三方楽所」という。南都楽所は当然興福寺に所属するものの、事務所を氷室神社においていたので、この奈良の氷室さんが長く日本古典芸能の中心であった。 ●鳥居脇の石灯籠 氷室神社へは、拙子が宇宙菴 吉村長慶の寄進した石柱を調べて境内を歩いたとき、鳥居脇の石灯火袋に_太鼓(だだいこ)や鉾を両手で持つ舞人(振鉾演舞)の浮き彫りがあった。南都楽所であることを示す石灯である。明治以前の奉納とおもうが、刻文を写しておかなかったので断定できないが。 明治の廃仏毀釈で庇護者たる興福寺がひどい有様になってしまったので、氷室神社は舞楽装束など300点以上を春日大社に奉納して、南都楽所の歴史は終り、明治3年にいまの「宮内省雅楽部」に吸収された。著名な雅楽奏者は東京へ行ってしまい一時は日の消えたようになった。ま、宮司さんなどには水谷川春日大社宮司のような和琴の名手が居たり、倭舞(やまとまい)いなどは神官が舞う。また巫女神楽は人気があり、細々と関係者はイバラの道をあゆみながらも民間組織「奈良雅楽会」をつくってまことによく踏ん張りました。現在は「南都晃耀会」に継承されている。 伝統芸能のなかでも特に歌舞伎や文楽など、やたらと人間国宝にして崇める商業化したのはそれがし大嫌いなのですが、自主的に稽古を重ねる市井の人には頭がさがります。 ●氷室神社と大宮家 南都学所が残務整理を終えた氷室神社に、明治3年春日社神官の一族であり舞楽の第一人者であった大宮守慶氏が祠掌となり、いらい大宮家が宮司を努めている。漢国神社この一家は男の名前に「守」の一字がつくのでそれと判る。明治大正の漢国神社の社司であった大宮守朋氏も一族にちがいない。みなさん歴史通で謙虚にして活力があります。 |
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