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奈良零れ百話/奈良国立博物館
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( 2015年 4月 10日 金曜日 )
登大路町(5)にあたるコラムです。
●お雇い建築から日本人による西洋建築へ 明治維新のあと、10年代に首都東京で建てられた鹿鳴館や日銀本店、参謀本部・遊就館ほか多くが東関東大震災や戦災で焼失したが、設計と施行責任はお雇い外国人である。国家議事堂や、日本初の上野の博物館も彼ら野息がかかっている。 彼らお雇い外国人建築家が育成した学生の一期生が、明治20年代から西洋建築をてがけるようになった。工学校の一期生に辰野金吾、片山東熊がいた。辰野金吾は重厚な赤煉瓦に白い花崗岩で入口や窓を隈取った東京駅や花崗岩の日銀でつとに知られ、西洋近代建築の日本人最初の巨人に治まっている。 ●帝国奈良博物館と片山東熊 片山東熊(『もとくま』が本来の名ですが、通称『とうくま』)は先のコラムに触れた奈良物産陳列所を設計した重鎮で、本日のテーマ、旧帝室博物館を建てた人物である。この人は先に東宮御所の一つである赤坂離宮、のちの迎賓館を建てた「宮廷建築家」という肩書きである。 でも今の赤坂迎賓館はヴェルさイユ宮殿のミニモデルみたいなもので、黒と金の鉄柵門はそっくりさんである。噴水とか庭のつくりの似ている事、まあよく知られたことですから、拙子がけなしても出がらし茶話にすぎない。ついでに辰野金吾の赤煉瓦銀行はというと、なんでもドイツの中央銀行をお手本にしたそうですが 昔のロンドン金融街ボンド・ストリートと見まがうばかりである。 ●近代化の一歩は模倣から 西洋追いつき追い越せの最初は「模倣」ですから、日本は明治以来模倣で発展して来た。いまは模倣される方になったけれど、わが先達を顧みて、中韓のパクリを大目にみましょう。ただし、公衆道徳を守らないのは迷惑、当地でも傍若無人なあちらの観光客に居合わせると不愉快きわまる。 明治生まれの父は、「和洋折衷」が口癖で、おかしな家の模様替えばかりに凝って、イヤな親爺でした。テーマに戻って、登大路の興福寺宝蔵院(槍の宝蔵院流をの跡に明編み出した)の跡地に明治27年『帝国奈良博物館』が5年を費やして竣工した。前後して現京都国立博物館も東熊さんが建てている。当時は奈良市民と京都市民それぞれから古都に似合わないと批判されて散々だったという。 京都・奈良の人はなんでも最初の試みに必ず反対するのですな。重要文化財指定に指定されているので、仮定ですが指定されていなくても「老朽化したので取り壊す」となれば、奈良のみなさん明治文化遺産保存を叫んで反対しますね。 それがしは、出来映えは二の次であって、見よう見まねでよくここまで完成したものと日本の力に感心を新たにしております。 ↑東側正面玄関、現在は工事中閉館だが、いつもから開かずの正門 本来は出口になる西側が入口になっている。 現在は改修工事中に付き閉館、平成28年春にオ―プンの予定。 ●野球あそびをした正面玄関前 拙子の少年時代は、正門の前は車の通る旧京街道の南路まで砂利引き、真中に円形に盛り上げた芝生があり、本来は正面玄関への車廻りである。円形芝生の真中に枝を広げた松の木があった。いま、砂利道はアスファルトになっているが真中の芝生は変わっていない。ただし松の木が植え替えたのか貧弱。今もそうだがこの正門が日開いているのは特別展くらい、平素は昔も今も東側が入口になっている。 だから正面前はまったく車が通らず、ここでテニスボールの飛ばないゴムボールでよく野球遊びをしたものです。真中の芝生に打球がはいればホームラン、小学生だから飛ばない。大人が打てば破れるボールですから素手でいい。開かずの玄関側だったせいか、博物館の警備人が見回りにきたことはなかったようにおもう。 ↑仏像館公式サイトより、円形芝と閉ざされている正面玄関を加筆。(無許可ですみません) ●新館は正倉院に模した吉村順三の設計 この国立博物館、現在は仏像館ですが、東隣の公園地に新二棟の低い和風新館が建てられた時は反対が聞かれない。正倉院,校倉をデザインした外観で、正倉院展はこちらに移ったので、称賛され奈良観光自慢のタネにかわった。 新館と仏像館は地下回廊でつながっていて、新館地下の書店や土産もの、喫茶トイレが完備しているので、拙子はこのあたりの休憩場所にしている。前の長細い水庭と呼ばれる人工池には、昔から自然の池があって春には真っ黒なお玉じゃくしが一杯とれました。あと捨てるのに困ったのだが、このあたりは樹々のある草地でした。 次回は旧奈良国立博物館のヘンテコなスタイルについて、今年見た私的印象を綴ります。 |
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