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奈良零れ百話/旧県立図書館
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( 2015年 4月 8日 水曜日 )
登大路(4)にあたるコラムです。
●旧県立図書館 高校時代に入り浸って勉強したところだが、いまハッキリとあれは受験勉強のフリをしていただけだったと認める。サルトルやコクトー、ジュリエット・グレコやイヴ・モンタンに憧れて、「田沼フランス語講座」を自習していたのだから。成績は3年生になってガタ落ちである。最後はビリ近かった。大学受験に落ちたけれど、図書館は懐かしい場所である。 旧奈良県庁の筋向かい、今は高い緑色の鉄柵があり、通りから入れないが、南側を正面に立っていた県初の公共図書館である。興福寺は近年、整備計画の一環として中金堂の再建工事が進行中、新金堂は白幕で覆われているが、3年後に落慶する予定という。工事中は仏像や寺宝を納める仮金堂に納めている。この仮金堂が登大路の通りから鉄柵越しに見える最初の興福寺の一建造物で、この假金堂のあたりに旧県立図書館があった。もと興福寺講堂から僧坊北室にかけての跡地に,日露戦争戦捷記念の建物として明治41年に建てられた。 この図書館でひとつ淡い想い出がある。進学高校であったせいか、女子が非常に少なく、男子だけのクラスもあった。クラス40人中女性徒は平均4〜5人ですから、いわば弱肉強食、顔も頭も弁舌も確かな男子がならよいが、それがしのような小さい奥手(精神的発達が遅れる)はどうにもならない。みんなが狙っていたけれどこの女生徒Tさんは誰も相手にせず、孤高の美形、のちに転校したのですが、小生は図書館でばったり出くわしたのですな。するとこの孤高と思われていたTさんが、実に屈託なく話しかけてくれた。おかげでこちらも普通に話でき、おもいもかけない楽しい数分でした。 それからは翌日も会えるかと期待していたけれど、再度遭遇することはなかった。唯それきりですが爺になった今も微笑ましく想い出す。 ●和洋折衷建築の系譜・辰野金吾、長野宇平治、関野貞、橋本卯兵衛 この建物しかし、関野貞が設計した「奈良物産陳列所(現仏教美術資料研究St.)」に似ていませんか。実は物産陳列所建築工事の現場監督だった橋本卯兵衛(うへい)という県の技士であった人。関野博士も奈良県古社寺修理技士でした。作風が似るのは当然か。なお長野宇平治は旧奈良県庁の設計者。↑ ↑どうです!これが旧県立図書館の正面、裏側が登大路町の通りである。 向いにあった旧県庁舎と同じく内部は洋風、外観は和風。主棟は2階建て、いま見ると二階正面に欄干があったのに気づきウマイナアと。両翼に切り妻屋根の平屋があり、結構なたてものです。 正面玄関から左棟が図書閲覧室、右棟が借りた本を読む読書室になっていました。拙子が高校生の頃、図書館が宵をするのは殆どが近くの奈良学代の学生さんたち、そのまた殆どが自習組である。夕方遅くまで開館していたので拙子のような高校生の受験組の自習も多かった。 長机にベンチは決して居心地良くはないが、当時は図書館は自習するものと心得、また自習禁止の張り紙はなかった。奈良学大の学生が、片手で大きな英和辞典を堂にいったスタイルで静かにすばやく引き、黙々と原書を読む姿は実に「粋」でしたね。入口でおばさんに入棺用紙に氏名住所を書くだけでよかった。2階は覗いただけですが、学術書の図書室や館長室があったようにおもう。 ●解体して郡山城に移転 明治の奈良県下公共建造物は、和洋折衷が幅を利かせ、民間の和洋折衷建造物は設計者が有名でなければ取り壊されてチョン。登大路の奈良カトリック教会が良い例だ。最も幸いだったのが、郡山城内に移転されたこの旧図書館である。新しい図書情報館が大宮につくられた1968年に解体移転された。なお、図書情報館は広くて司書の皆様とても親切、拙子は大いに活用しております。 現在は郡山市教育委員会の施設としてASUという不登校児童を支援するなどに活用されて効果を上げているそうです。内部も大事に管理され、申し込めば内部見学ができるそうで、桜の頃、是非内部を見て頂きたい。拙子も行きたくてチャンスを逃がして来たが、次回は最優先にしよう。 ↑筒井順慶の郡山城内に移転された旧県立図書館、窓ガラスの洋風桟もそのまま。美しく磨き上げられた内部は昔より素晴らしいといわれる。 住所:大和郡山市城内町2-7 (了) |
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