安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話/登大路町(3)
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( 2015年 4月 7日 火曜日


●新奈良県庁とわが母校校舎
前後しますが、いま奈良県庁舎が立っている一角は西角に武道館があり、その後ろに木造2階建ての奈良赤十字病院がありました。ここで小さい頃の姉が盲腸の手術を受け、ベッドの脇机に見舞い品の果物やフルーツ缶詰を見て、ボクも病気になりたいと
思った。美味しいお菓子や果物は高嶺の花、戦後10年は庶民みな貧乏、冬でも短ズボンに靴下なしだもの。

武道館は消防署になり、隣が奈良学芸大学付属小学校の正門、さらに東にもう一つもう少し立派な校門があって、奈良学芸大学の正門です。小学校と大学は門の中で段差になって連なっていて、講堂と運動場は共用でした。今、駐車場になっているところも奈良学大の校舎があった所で、その前は興福寺の勧学院があったところ。伝統を受け継ぎ明治に師範学校として開校した。現在の教育大学に名称が変わったのは1966年以降のことなので、それがしは今でも「学芸大学」の呼び名がしっくりしている。

「教育大学」に変えたのは改悪であると思っている。ま、国立学芸大学が一斉に地元の名前を冠した教育大学に改名されたのだから拙子個人の気持ちの問題に過ぎないと承知してはいるが。


奈良学芸大学附小学校正門。旧すぎる明治の写真は富国強兵の折りから何の祝日でしょうか、公園での軍事演習司令部に使われた模様。
覚えのある昭和中期の様子と、ぼんぼり型外灯を除いてそう変わらない。
本館にはいると(生徒は別の校舎入り口から教室に入る)下駄箱と来客用スリッパがあり、右に教官室、まっすぐ中庭に出るところに小使い室があった。小使い氏の機嫌がよいときは熱いお茶を呉れました。


こちらは学芸大学正門、これは明治末の撮影らしいのですが、校門前の郵便ポストは当時昭和20年代と同じ。ここの教授が付小、付中の校長を兼務していたが、今はどうか知らない。

●三つ子の魂と少年時の習慣は直らない
それがしは北半田の付小女子部(男女共学になってそう呼んでいた)に入学したが、4年生から登大路の男子部と合併して登大路に移った。正門でなく裏にあたる運動場側から入る通学道路だったので、どちらも家から3分しかっかからない。門の手前で始業ベルがなってもダッシュして先生が教官室から到着するより速く教室に入れた。仕事になんでもギリギリまで愚図ついて間に合わせる習慣はこの頃から身にしみついた。死ぬまでなおらない悪習である。虚言癖がつかなかったことを幸としよう。

●県庁内の公共設備は最先端
今の県庁舎は1965年竣工なので、数年前に修理リニューアルが行われたという。ピカピカに見えるわけだ。にしても、日本中の自治体がこぞって不似合いに豪華な庁舎や美術館、からコンサートホールを持っている現象に合点が行かない気持ちもあるが、蒸し返してもはじまらない。

建物全体は空中から見れば一目りょう然なのですが、伽藍に模して左右に議会棟と東棟を建て、これを回廊につないで本堂にあたる真6階建ての主棟を一巡りする構造になっている。主棟の上にある塔はビル設備の一環だが、校倉風にうまくカモフラージュしている。また新コンビニ7-elevenと喫茶が正面入って直の一階にあるので、利用しない手はないぞ。授乳室とトイレは中国観光客が見たらビックリする完璧さ。団体で押し寄せる光景を想像すると、実は現時点ではまだ教えたくないですな。

とはいっても道路前の芝生を抜けて主棟にはいるのは臆するのか、観光客には周知されていないためか、県に用事のない人はあまり入って来ない。また屋上塔上階に展望室がある。拙子は数年前、6階屋上に案内されてぐるっと四方を一周、大仏殿の輝く鴟尾、春日山の全容、山焼きを望む一等場所だ。奈良全市街のを見渡す眼福を味わい、気宇壮大。「高き屋に のぼりて見れば煙立つ 民のかまどは賑わいにけり」の心境になりますね。阿倍野ハルカスのような高所からこのような感慨はうけないだろう、人間が俯瞰して人心(ひとごころ)を感じるためには丘の高さあろうかとおもう。


奈良県庁。正面から全体を広角ヒズミなしに撮れるような場所はないとおもうので上掲写真は合成でしょうか、でも正面から全体をカバーして最もよい写真はこれが一番。修理リハビリ工事を受注した建設会社のサイトから拝借しました。






Pnorama Box制作委員会


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