安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話/登大路町(2)
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( 2015年 3月 24日 火曜日


前回。江戸時代の興福寺境内の図で「八ツ足門」が近鉄奈良駅、「四ツ足門」が現在の「県庁東」あたり、ここで旧京街道と交差する/県庁駐車場から登大路を先に進むと「国際奈良学センター」という宿泊、会合など民間に提供されてきた結構な施設がありましたが、平成27年三月切りで閉館された。元「三蔵院」の敷地です。

●野村万作邸
その前は長らく野村万作邸、この人物は政府任命の奈良県知事で、普通選挙法になってから初代の知事であった人。著名な能狂言師と同姓同名なので、小生も変だなと感じつつ永らく能役者の家と思っていたのであります。小さい頃から、スゴイ門構えの正門は閉ざされたままで人気が無い。ご本人は知事の官舎をそのまま私邸に買ったのでしょうか、ご本人は出身地か東京に越されたまま空き家になっていたようでした。

奥田良三氏が野村知事の再選を破って公選二代目知事に当選すると、野村邸北側後ろの「仏地院」に新しく知事公舎を設け、建物をほぼそのまま踏襲したようです。登大路から水門町の間は、廃仏毀釈によって興福寺子院のことごとくが「上げ地」として明治政府に取り上げられたため、奈良県が民間に売却したり、登大路のあたりは多くを県が所有、文化会館や美術館、県警本部ほか、セミナーハウスの隣は細い道路を挟んで副知事の公舎がある。「無量寿院」の旧建物を転用していたが、今も副知事公舎のようです。

●木本源吉の大屋敷
この副知事公舎の隣に古びた問があり、この奥へ副知事公舎の裏「きんでん保養所」まで、元正智院と妙喜院を合わせた広大なお屋敷が戦後しばらくまであった、と聞いている。木本源吉という明治・大正に実業界の要職を歴任した奈良の名士、公職では奈良市長だったのですが、奈良長者番付で一番はと聞けば、木本さんと子供でも答えたという人物だったという。

●日吉館
木本家に男仕事で仕えていた田村松太郎さんという大変勤勉で主人に信頼されていた方が「土地家屋をあげるから独立しなさい」と近くの持家を木本主人から頂戴し、大正3年ここで下宿業を始めた。登大路、低逸博物館の筋向かいにある一等地である。その子息・寅造さんのおヨメさんがキヨノさんというわけです。文筆家、塀術家や学生に愛された「日吉館」については数冊の本になり、語り尽くされているので、私事記憶を述べると。おかみさんの田村キヨノさんはシャキシャキした小さな人、姉と級友だった活発で美人の娘さんはタムと呼ばれていた。間口こそ7〜8mだが奥行きはうなぎの寝床、間口の5倍はある。裏で由良邸(現在の吉城園)と接していた。開け放たれた玄関から二階に上がる階段が見え、ガタピシの急な木の階段で手摺がないのは民家とおなじで変だとおもわなかった。今思えば旅館としてはやはり変でしたね。

また、日吉館に集う若き日の文士たちをキヨノさんを軸に美術研究家や絵描きさんたちをテーマに書いたドラマ「青によし」を白黒TVでみた記憶があり、このドラマを書いたのが中学の国語の先生だった植西先生で、先生はこれを機会に学大付中を辞して東京に行かれたと聞いていた。しかし調べると10972年に放映大阪NHKから放送されたという。それなら拙子が当地に移住した翌年になり、辻褄があわない。どうなってるの?拙子の思い違いか、しかしTVドラマ最終回の場面「功なり名を遂げた」かつての常連客が日吉館に集まり、タバコをくゆらし昔を偲ぶシーンをはっきり覚えている。「功なり名を遂げた」という陳腐なナレーションがきおくにあるのだが・・・


日吉館の看板題字を書いたご本人・会津八一ときよノさん。撮影者不明、両者の年代から1950年ごろか。


平成10年、キヨノさんが88歳で亡くなった。強者どもが夢のあと。看板が取り払われ、廃業して久しい「日吉館」・・老朽化して危険なため2009年とりこわされ、新しい店が建てられた。キヨノさんは採算を度外視して一人できりもりして来られた。泊まり客からオバさんと呼ばれ、女将の個性で文化人に愛された旅館であった。東京住まいが長い長男氏と娘さんに無理も言えず、晩年は日吉館を盛り立ててくれた諸先生方を懐古し、自分を責めるような心境だったという。






Pnorama Box制作委員会


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