安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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奈良零れ百話/近鉄奈良駅
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( 2015年 3月 18日 水曜日


●前口上
高田十郎氏の「奈良百題」およびと喜多野徳俊氏の「奈良閑話」にあやかって拙子がつけた表題。ほんとうは表題を「奈良百題」としてシリーズにしたかったのですが、「奈良叢記」の中に高田十郎氏がすでに「奈良百話」と題してB5版45pですが書かれている。それで「奈良零れ百話」とパクリのような題にしたのですが、この心底から啓発を頂いたお二人はとうに鬼籍にはいられている。どこからも文句はこない。それでなくても立腹する人柄ではなく安心してはじめよう。ただし、先達のごとき碩学とは縁遠いそれがしのことである。30歳まで慣れ親しんだ奈良の旧懐を呼び覚ましつつ駄弁るにすぎないが、お手柔らかに。

●新 近鉄奈良駅
近鉄奈良駅は観光都市の駅らしく、奈良公園よりの一階構内にある観光案内所はいつも順番待ちするほど人が入っている。観光客にはありがたい。中学時代の級友がボランティアでカウンターにいるときは、必ず目配せで挨拶して通り過ぎる。気分がいい。駅ビルの中には手頃な値段の各種レストランがあり、とりあえず何の不満も無い。この駅ビルは昭和44年に線路が油阪から地下に潜ったのだが、そのときはまだ今の駅ビルではなかく、どうも思い出せないが高いビルではなかった。出来たばかりの次の駅「新大宮」のあたりはまだ田圃が残っていた。それが80年代おわり頃だったか、帰省した折り今の改装ビルを初めて見て、浦島太郎よろしく頭がこんがらがったのものでした。

その後、駅前の広場を、あれは駅の敷地だからコンコースというのか、見た目には等身より小さく思える行基菩薩像が噴水の真中の円錐台に立っている。なんでも奈良赤肌焼きの陶製らしい。ヘンなもの作ったものだと、当初は不愉快におもっていたが、時とともに馴染まされ気にならなくなった。行基広場と呼ばれて待ち合わせ場所になり、噴水の浅い底にコインがたくさん見える。♪Three coins in the fountain♪

奈良ゆかりの行基大僧正を、人は「菩薩」とよぶ。これを建てた当時の市長が鍵田忠三郎氏と聞けば、納得する人も多いだろう。毎年英霊の送り火として高円山で大文字焼きを始めた人、県下に大地下湖があるとお告げを聞いた…水不足を一挙に解決できると吹いた人、地震雲で地震予知を市議会に提唱した人であります。坊主頭で大仏さんのような容貌、神懸かりな人でした。剣道家で威勢がよい。宝蔵院流槍術保存会の会長さんでもある。このタイプは今ではいなくなりましたね。


↑奈良駅まえの行基菩薩像が噴水の中に立っている。


↑故 鍵田忠三郎、1967年から3期14年のあいだ奈良市長に在任。

●地上を走っていたころの木造駅舎
さて、ビルになる以前、電車が道路上を走っていた頃の木造奈良駅を、かなり鮮明に覚えている。乗降口は観光の東が正面で(下の写真)、登大路側出口と、小西町側に南出口があった。駅構内は正面のほかは白ペンキの木柵だった。小学生の頃だったと思うが、まだ奈良公園の米春日野プールが占領軍に接収されていた時代、一般市民が入れるプールといえば「あやめ池遊園地」のプールだけしかなく、遊園地の入場料を払わなくても外側からプール代だけで入れるようになっていた。小さな25mプールはいつも芋の子を洗う盛況。電車代と、プール代とアイキャン(アイスキャンデー)のお金を母に貰って良く通ったものである。帰りはへとへとにつかれて…楽しかったな。

あるとき、同い年ぐらいの知らない子が『お前ただ乗りやろ』という。エ!? そのとき木柵のあいだをくぐり抜ける子がいることを知って随分ショックをうけたものだ。しかしどうやって「あやめ池」の駅を切符なしで通り抜けるのか、いまもって分らない。ま、木造奈良駅はそういうのどかな建物でした。ある雨の降り出した帰り、奈良駅に母が傘を持って迎えに立っていたのが忘れられない。♪雨雨ふれふれ母さんが、蛇の目でお迎えうれしいな♪


写真は昭和30年ころであろうか、大正の開設駅舎を修理して概ね踏襲している。故藤井辰三氏の写真集から拝借しております(ほんとはイケナイのですが)。藤井氏の写真はヤラセやツクリがない。モダンな女性は偶然か、シャッタ―チャンスを活かされた。タクシーはトヨペット・クラウン。看板には英語も併記されておりますが、日本語をみてくださいまし、「近畿日本奈良駅」とあり、地下にも潜って新駅ビルになったとき「近鉄奈良駅」と改称されました。






Pnorama Box制作委員会


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