安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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吉村長慶 番外編(4最終回)
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( 2015年 2月 26日 木曜日


●見つけたもう一つの長慶もの
以前、奈良まち徳融寺の「寺子屋」という隔月講演会で、それがしが吉村長慶をテーマに一度つたない話をしたことがあって、話のあとで白髪の高齢者の方が、「こんな長慶ものがありました」と高級カメラで画像をお見せ下さった。その一つは小生も聞き知っていたのだが見つけられなかった諌鼓鶏型の石灯籠で、北半田の家と家に挟まれた隙間にある。この奈良まちと北まちのこの辺りは長慶累系の方の家が数軒あるので、もとはその家の庭にあったものとおもわれる。で、その後帰省するたびに探し歩いたのだがいまだに見つけていない。

そしてこの仏像等を撮り歩いているとおぼしき白髪の人に見せて頂いたもう一点が秋篠寺の石柱である。それがしが帰省中に居候する平城佐紀町と隣接する秋篠町の秋篠寺にあるとは、「灯台下暗し」を地でいく見落としであった。それも普通の参拝道である西大寺駅からゆくと、西門から入る。探しながら南門を見下ろしてもそれらしきものはなく、見つからなかった。ところが二度目車で送ってもらい駐車場の横の南門から入ったとたん、直ぐ左手にありました。なにしろ刻字が尋常ではないので寄進者の名前を見なくても長慶ものと解る。

●大日本帝国大元帥明王最初影現之霊地


 
長慶寄進の石碑は南門を入って直ぐ左に
東に面して正面に上記小見出しの文字が彫られている。
裏面西側「寄附主 活教主 奈良市 吉村長慶」、
南面「現住鑑空巨道代」
北面「維時 明治四十年未丁五月」
石柱の高さ166cm、台石の高さ10cm幅40cm、正面幅25cm、側面幅24cm。

明治四十年未丁(ひとのとひつじ)は日露戦争の年であり、日本の必勝を願う石柱である。
そこで正面の刻誌にある「元帥明王」の意味が秋篠寺に建てた理由であることがわかるのだが、まず秋篠寺について述べておきたい。

●秋篠寺とは
もとは奈良時代、平城の西北に居住した豪族秋篠氏が後ろ盾になって法相宗の僧・善珠が創建したようなのであるが、仔細は解らない。公には光仁天皇の勅願により僧・善珠が創建した事になっている。平安時代には勢力があったらしく、南隣にある西大寺と寺領の争いをしているくらいですから。それくらい勢力がある立派な伽藍が、平安時代の前期にあたる1135年に丸焼けになってしまった。ですから現在あるのは鎌倉時代に、すこし小粒に再建されたものです。西門からはいると見事な苔庭があり、ここが元の金堂の址です、白壁の向こうに本堂が見えます。


●秋篠寺の観光お目当ては技芸天(下左写真)
秋篠寺と言えば、本尊の薬師三尊より技芸天が有名です。平胸だが豊満で腰をひねり、ちょいと首を傾げた優雅な立像。頭部だけが平安時代の焼け残りで、お身は鎌倉再建時の木造なのですが、見た目にはちっともわからず違和感がない。「体部は運慶作」と一昔前まで通説だったが、最近の学説では言われなくなった。ほかにも何故か頭部だけが平安時代のオリジナルと言う仏像があるけれど、火災の時、坊さんたちが乾漆だから頭部だけもぎ取って持ち出す事ができたのかな? などと素人考えが浮かぶ。いづれにせよ結構なことでした。

秋篠寺は平安時代に天皇家と関わりが深かったようで、そういえば京街道のひとつはこのあたりを通っていました。秋篠の宮様の名称もやはりこの秋篠の地に由来し、技芸天が紀子さまに似ていると下々で言われております。

●境内の歌碑
境内に吉野秀雄が詠んだ歌碑ムあまりじし なき肉置のたをやかに み面もみ腰もただうつつなし 
あまりじしは贅肉のこと、肉置はししおきと読み、うつつなしはこの世のものとも思えないとの意。
境内には会津八一がおおらかに風景を詠んだ−−秋篠のみ寺を出でてかえり見る生駒ヶ岳に日は落ちんとす
の方が人目を惹きますが、吉野秀雄の珍しい恍惚の歌碑をお見逃しなく。さらに大元堂の裏に技芸天を詠んだ川田順の歌碑−−諸々(もろもろ)の み佛の中の技芸天 何の えにしぞ われを見たまふ
これは本堂の中に居並ぶ仏像の中でも、下に首を傾げている技芸天と拝観者の眼がある位置で実際に会うのでギクリとして逃げる人もるが、何の縁で吾を見るのかとジっとお見合いする歌。恋に生きた川田順の歌碑もどうぞ

 
●大元帥明王(右上写真)
さて大元帥明王ですが、これは平安時代の当時の僧が閼伽井、現在の香水閣という井戸の水面になにやら恐ろし気な像を見て忘れられなかったという。でこの僧・後年唐に留学してあの恐ろし気な像が大元帥明王であったと知った謂れがある。しかし製作されたのは鎌倉で、真言密教の憤怒像ですから、このころの秋篠寺は密教寺院だったのでしょう。同じ密教の技芸天は芸事のかみさまですが、この大元帥明王(密教ではたいげんみょうおう)と」よむ)は元来インドの民間信仰、夜叉とか鬼神が仏教に入って明王となったもののうち、総ての悪や敵を懲らしめ国土を守る明王中の総師なのです。それで「大元帥」と呼ばれるわけです。

長慶さんは。秋篠寺に日本国土を守護するこの「大元帥明王」が閼伽井の水面に映り「影現」した霊地であることから、日露戦争勃発に際し、大元帥明王に日本国の勝利を発願、国家安泰と戦勝を祈願してこの石碑を建てたのでした。刻誌『大日本帝国大元帥明王最初影現之霊地』と建立の日付はそう言う意味であります。

ところでこのような鎌倉時代のリアルに誇張された各種明王、不動明王、軍荼利明王、愛染明王などは毎日見て気持ちのよいものではありませんね。一面六臀・6本の腕に武器を持ち蛇を胸、腕手首、足首に巻き付け、牙をむき出し、怒髪天をつく凄まじい形相のこの秋篠寺の大元帥明王は、大元堂に秘仏として安置され、一般に公開されるのは6月6日結縁開扉の日だけ。大元帥明王像の最高傑作とされる重文、列にならんでも長蛇の列に並んでも一見の価値あり、写真もオーケーですまたこの日には清浄香水、味如甘露、大元帥尊像御影冷、と刻まれた石標が立つ香水閣の清水をペットボトルにお持ち帰りもオーケー。(了)






Pnorama Box制作委員会


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