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アナトリアに使徒パウロの足跡を訪ねる(2)
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( 2012年 3月 30日 金曜日 )
3月23日
本日は西のエーゲ海に面した海岸まち・クサダシへ、パウロが二年間住んで伝導したエフェスス(エペソ)をタウルス山脈の山越え500キロの長い行程である。 ●トルコの琵琶法師 昼食のレストランでトルコの民俗楽器・SAZサズを弾く盲目のおじさんが食事中我々の席を回りながら民族ダンスのリズム曲や哀愁に満ちた温浴を唄いながら聞かせてくれる。サルサは胴がマンドリンでネックが三味線のように長くて3弦である。フレットが不規則でペッグが左に三つ、右に四つあるのがなぜかわからない、ダブルストリングでも共鳴用の背面現弦でもなし、おじさんは3本しか使っていなかった。聞いても通じないし、調べる気になればわかることなのでいまは深入りしないときめ、チップを余分入れる。持ちにくい楽器をストラップもなしに親指と人差し指の二本で爪先、爪の甲、指腹を巧妙に使う。またバチのかわりに小さなピックで弾く曲もある。いわばトルコの琵琶法師さんでした. ●アフロディシアス 昼食を終えて本日のメインである、美と愛の女神Aphrodias(アフロディテの町)を見学。内陸カラカスの東にあって、標高700メートルの台地にある。このあたりはメアンデールの谷中にあり、紀元前から幾多の文明が興亡したところである。 どこへ行っても「このまちには石器時代の住居跡が発見されています」などと説明されるが、このアフロディアスの旧跡は7千年前、新石器時代に遡る。鉄器、青銅器時代、を経て、バビロニアに滅ぼされたアッシリア人がニネヴェから逃れてこの地に移り住んだ。そのとき彼らメソポタミア文明の宗教である「母なる大地/豊穣の女神のアフロディテ」の像を祀る儀式を持ち込んだといわれる。 その後紀元前、ローマ人が現トルコの西南部アナトリアを征服し、ここに壮大な都市を建造した。今、我々が考えるギリシャ女神のアフロディテは紀元前82年、総督が劇場やアゴラや守護神を祀るアフロディテの神殿(バシリカ)を建て、長さ3.5kmの市壁を巡らせて市の名称を「アフロディアス」と命名して以来のことである。当時はローマ帝国の中でも権勢のある重要都市として栄えた。
アフロディテ寺院の跡、イオニア式石柱をとどめるのみ 左:アフロディテ寺院への門「テトラパイロン」(4本の組み柱x4角)寺院はこの門の50倍もある大建築だった。右:勝利の女神ニケ、翼の模様が靴のNIKE商標になった。 3万人収容の大スタジアム、唖然と見つめるわが一行。競技のうちマラソンだけは奥に見えるトンネルを抜けて外を走る。演目には猛獣と奴隷闘士の戦いもあった。 人口20−30万人の古代都市が内陸のこの高地に成立した理由は、市の東にそびえるババダギュ山2375mの万年雪にある。雪水がアフロディスの随所に湧水となり、ローマ人の浴場や下水システムを可能にした。雪水は川となって近辺の谷を潤し大河メンデレスとなってエーゲ海にそそぐ。そういうわけで一帯は農業と果樹栽培で自活できる土地柄であった。アウグストゥス帝のい時代は特に栄えたといわれる。
●偶像破壊 ご存じのようにイスラムは偶像崇拝を認めない。モスクには何の像も置かれていない。神社のご神体や、仏閣にあまたの仏像、キリストの像や十字架のシンボルなど、拝する対象物をイスラム教は禁止している。イスラムの神「アラー」がどのような顔と姿であるかを表した絵も偶像もない。それゆムスリムが異教の地を占領するやいなや、偶像は破壊される。アフロディテの顔やギリシャローマの彫刻に鼻の損傷したものが多いのは、イスラム教徒の手による。 一方、全体像が壊れているのは人の手にかかったよりも、約100年に一度の周期で起こる地震で倒壊したためである。 ローマ人はせっかく築いた石造家屋がたぎたび地震で破壊されるのに懲りて、民家を木造にしたのであるが、石と違って燃えた朽ちたりして現在は何も残っていない。(続く)
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