安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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デンマークの夏休み
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( 2011年 8月 17日 水曜日 )



●ヒルトスハルスへの高速フェリー

南ノルウェーの港ラーヴィクかLarvikら北デンマークのヒルトスハルスHirtshalsの最短距離を3時間半で航行するスピード・フェリーがある。家内は心配症だから3時間以上も前に港に到着。まだゲートが閉まっていた。先に出港した船の積み残しの後ろに一番で並べたのはよいが、どうやって時間をつぶすか、冷房の効きすぎた待合ホールを出たり入ったり落ち着かない。乗客の殆どがノルウェー旅行から帰途にあるデンマーク人かドイツ人、もしくはこれから休暇に出かけるノルウェー人で、カンカン照りの下で簡易椅子を持ち出して肌を焼いている。

▽食い意地
このカラーライン社のレストラン・ビュフェが安くてうまい。ワイン、ビールもついて4000円ですから久しぶりに嬉しいですな。ベルゲンで定期日本人会のある安い安い店でも5000円は使うから、デザートだけで20種類以上もある豪華ビュフェがこの値段、こたえられません。

▽冷房効きすぎ
ということで、通風を顧みずたらふく食べまくるす。しかしここは寒い、冷房18度くらい。ウェイトレスさんはそれなりの服装だが、客はみなTシャツと半パンだ。やっぱり食べたら席を立つ者がちらほら、私どもも船内をあるくことにする。冷房の効きすぎはどうやら8階レストランが特別で、他の階はそれほどでもなかった。
1日目●ヨーリングHjφrring
定刻どおりに到着、その日はヨーリングというところで一泊、ネット接続があるのでメールをチェック。腹がもたれ、早々に寝る。痛風が出ない、なぜだろう? 朝食がうまい。

2−3−4日目●スカーゲンSkagen回顧
▽鳥瞰図、印刷に失敗
翌日から4日間をデンマークの南端スカーゲンへ、家内の好きな海水浴のためである。この町は私にとって思い出の深いところで、1976年ごろだったか、スカーゲン、旧スカーゲン、南端の砂岬グレーネンを俯瞰した鳥瞰図の注文を受けて、この地に来たことがある。注文主はオスロの人、このスカーゲン市内にある営業停止のベーカー茶房を別荘に改造し、オーヴンのあったレンガ壁と壁から突き出る磨き上げた銅製のパイプをオブジェ風に生かした広間が印象深い。いくつも寝室のあるこの注文主の別荘に数日滞在し、夫妻の車であちこち案内してもらったので街の様子は頭にはいっている。

描いた鳥瞰図を印刷販売するのはこのスカーゲンの芸術好き実業家で、Grenenグレーネン岬にあるレストランと美術館を所有する実業家おじさんが担う。ここで何を食ったかは忘れたが御馳走になりました。

さて鳥瞰図の出来上がりは面白くない。一番高い場所が30数メートルの Den Tilsandede Krke「砂埋まりの教会」という昔、砂嵐で埋まった教会の塔である。ペッチャンコで描きようがない。家、ってものを一軒一軒屋根の色に注意して精密に、グレーネンに東と西から打ち寄せる白波の伸びるさまを克明に描いた。デンマーク国土地理院の垂直ステレオ航空写真ほか、自分で撮ったスライドなどこれほど多く集めた資料はない。

ところが印刷をシルクスクリーンでやった。オフセット美術印刷でやるべきところをなんとバカな、シルクスクリーン用の写真版で印刷したので粗荒な網点、家々の並びも波も台無しだ。売れなかった。ま、わたしの責任ではなく仕事料は約束通り頂いたが、あのオスロの夫妻には思い出すと後味がわるい。

▽海水浴
デンマークへ何をしに来たか、ホリデーの目的は砂浜で泳ぐこと。私は家内の計画に同行している身分で少しは泳ぐが、砂浜に寝そべって日の過ぎるのをまつ。リゾート地スカーゲンはこの季節どのホテルも満杯、したがってガタピシの古いホテルでも結構高い料金をとるが、商店レストラン通りは賑やかでいかにも夏安みに来た感じがする。この雰囲気はリゾート客を呼ぶ相乗効果になるので重要な要素である。

ここで晴天の2日間をさらさらと粉のような砂浜で体を焼き、その前から家の草刈りで焼けていたのでこれ以上黒くならないほどに日焼けした。夕食はホテルの外へ、あるホテルの魚ビュフェがよさそうで入ると満席、しかたなくホテルの戸外レストランに座ってヒラメを食べる。これが旨かった。それで翌日は予約してフィッシュ・ビュフェにありついた。依然、通風は全く忘れたように消えているが明日今後の体調も考えて「腹八分」を心がける。

▽グレーネン、最南端の砂州


3日目は小雨が降ったり止んだりの曇り空なのでグレーネンにゆく。ホテルから車で10分とかからない。駐車場の上に例のレストラン/ギャラリーがある。オウナーだったオジサンは生きていれば100歳近い。立ち働くウエイトレスさんに聞いても詮無きこと、黙って空になった大きいコーヒカップを前に家内と駄弁っていたら「もう一杯いかが」と注ぎ足してくれた。



サンドオルメンSandormen=砂蛇と呼ぶ座席車を大車輪のトラクターが引っ張り、砂岬の突端まで連れて行ってくれる観光車両がある。デンマークの最南端、東の波と西の波がせめぎ合い、砂を押し寄せたり引いて行ったりするところ。泳いでぶつかり合う波に揉まれたら最後生きては帰れない。一帯はもちろん水泳禁止、ボート禁止だ。この先端に立たずしてスカーゲンを去ることなかれ、というぐらいですから行ってきた。近年は弧状に延びていた砂地が短くなっている。砂蛇車はシャトルしているので帰りはどれに乗ってもよい。歩いて突端まで来た人は片道料金を車内で払えばよい。

▽オールド・スカーゲンGl.Skagenにて、はかない恋を語るおじさん
そのあと町の反対、西側にあるオールド・スカーゲンへ。30数年前、鳥瞰図の注文主夫妻と一緒に知り合いだという家を訪ねた。民宿をやっている家だったが、10月頃で客はいない。旧スカーゲンの町全体が冬眠中のように通りは人っ子一人見えない海からの冷たい西風が吹き付ける赤い屋根の町だった。訪ねた家には近隣の旦那方があつまり昼からワインを飲んでいる。我々も陪席にあずかり、アケヴイットからはじまった。優雅な人種だなとの印象をうけた。ノルウエーでもロフォーテンにいったとき、漁師が昼間っぱらからホテルのバーで飲んでいて、冬の半年は漁に出て暮らし、後の半年は丘で飲んで暮らすとクダを巻いておりました。で、この民宿の独身おじさんが古びた定期入れに入るくらいの写真を私に見せて「韓国の子で○○という名、数日一緒んたとてもいい子、あんなにいい子はいない」といろいろ語るのでした。周りの仲間は彼の青春の想い出をよく何度も聞かされているるらしく、からかっている。船員になって世界一周するのが当時北欧の大人になる通過過程のようなもの、このオジサンもマドロスになって韓国に寄港したとき、遊興の場所で知り合った写真の中学生のような子とたのしく幸福な数日を得たのだろう。切なくやるせない追想であり、なおまた生涯大切に心に育める思い出をもつことはこの上ない幸福にちがいない。あのときおじさんに小生がなんと答えたか、覚えていない。戸惑いつついい加減な返事をいたのではなかったか、「美しい人ですね」と言えればよかったのだが。

小雨に濡れて砂利石の海岸に立つ。たしかこの行きどまり道からそう遠くないところにオジサンの民宿があったようにおもうが、家がみな黄色の壁に赤い屋根、どれも同じに見えて識別不可能である。次の目的地、このあたりで一番高い丘、海抜30mぐらいに中世の頃から何度も再建された教会で真中に塔がある。周りの教会建物が砂嵐で埋まったこでTilsandede Kirke「砂に埋まった教会」と:いう。昔は航海の目印になっていたとかで塔内の石段を4階までのぼると3方地平線まで見わたせる。この塔を掘り起こして他の平らな建物は埋まったまま。要入館料、階段の上り下りが足に堪えるので我々は入らない。
痛風が出ないのはよく泳いで運動したから
だろうか、睡眠10時間が利いたのだろうか、自信がついたので夕食は血の滴るビーフをこってり食べました。賑やかな通りのレストランでは18時まで半額サービスになる料理があって、時間内に入る。スカーゲンでは夕食後、バーによってアイリッシュコーヒを歩道テーブルで楽しむのが定番になりました。ノルウェーの半額ですぞ。

5日目●リュイ Ry
スカーゲンを出て途中オールブルグAalborgとランデルスRandersの中心をぶらつき小休止、幹線から逸れた小さな町ルュィRyへ。子供たちがまだ小さかった頃、家内はこの地の子供キャンプに参加したことがある。それで30年後、懐かしい地に伴侶をつれてきた。町の中心にあるRy Park Hotelで一泊。いいホテルで、設備も新しいが中で複雑に折れ曲がっている。プールは小さくていま一。ここは内陸なので海岸がないが、湖にビーチがありそちらで泳いで、日干しする。大きな池というか小さな湖というか、一応小波が岸辺に打ち寄せて水泳場乃標識があり駐車場がある。地図で見ると川で次々と湖に連なっていた。遠浅で子供によいが、冷たい水で今日は風も暖かくない。大人はもっぱら日光浴でのんびり時を過ごしているが、どうも退屈だ。近くの大きい町までドライブしようと切り上げる。

▽荒野の都市と化したノン・リゾートタウン
ドライブはシルケボルグSilkeborgへ、このあたりのちょっと大きな美しい町で義理の亡き母が好きだった。しかし行った町はもぬけの殻のように閑散とし、町の広場には移民系がたむろしている。北欧はどこでもそうだが、リゾート地でない中小都市の夏休みシーズンは寂寞としている。人通りのない商店街に吊るされた万国旗が風に揺れ侘しくなる。夕食はリュイに戻って探すことにした。中心を少しでると途中、移民系の小さなピザや中華やすしの店がある。これも北欧中小都市に共通の現象だ。

6日目●ニーボルグ
本土に短い橋ひとつで接するフィン島の東端にある小さな町、ニーボルグNyborgで4泊する。ホテルはWestWesternチェーンのホテル・ニーボルグ・ストランド、広大な敷地に数々のウイングをもち、各種会議場をそろえたホテル。こんな雄大な規模はノル―ウェーにはない。駐車場のひろいこと。家内はスぺリオールに部屋をリザ−ブしていた。

部屋の窓から海原がどこまでも、道路を隔てて砂浜の海岸がひろがり、地平線にかすむ隣の小島まで橋が伸びている。その先に八の字に見えるのは吊り橋でコペンハーゲンのある島シェッランに架かっている。また左端海上に風力発電の白いプロペラがゆったりと回転していた。

部屋のTVはいまやどこでもフラット壁掛けたいぷだが、ここは42インチの画面、やはりこれくらいの大きさでないと寛いだ気分にならないものです。リュイでもこのニーボルグでも一番のホテルを家内がリザーブしたのは、夏季特別割引のせいで、実際スカーゲンのおんぼろホテルよい安いのである。わたし同様、バーゲン買いが結婚以来の習い性になっているのであります。

さっそく前の海に入る。水温が低いので、わたしは10分ぐらいで一度砂浜にあがって日干し、暑くてジリジリしてくるとまた10分泳ぐ。それを何度か繰り返すのだが、家内は風呂につかってでもいるように海からでてこない。強い皮下脂肪を蓄えているので寒さに強いのだ。

この日は日曜スペシャルとしてデンマーク風フィッシュ・ビュフェが当レストランであるというので、夕食はそれにする。
これがまた凝った時間をかけた料理がわんさとあり、そんじょそこらのビュフェと似て非なるものであった。アイスクリームをかきとるシャモジはナイロンの衛生手袋をする。痛風にビールは禁物というが、泳いだ後の食事はワインよりビールが旨い。

7日目●オーデンセOdense
翌日は車でハイウェイを飛ばすと1時間あまりで走れるオーデンセへ、ほぼ平行に走る国道を通り、途中のまちで道草しながら2時間かけてゆく。家内はニーボルグのホテルを5日滞在したかったが、8日だけフルでブッキングでいなかった。それでこの日はオーデンセ泊まりとなりました。さて、オーデンセといえばH.C.アンデルセンの生地、童話の聖地を訪ねる。ホテルはもちろん「Rddisson Blu SASホテルH.C.アンデルセン」。このホテルは地階にカジノがあり、日本の旅行団体も利用するはずだがこの日は一人もみかけなかった。4つ星にしては良くない。プールがないなどおもしろくない。取り柄は町の中心部にあり、アンデルセンの家(博物館)まで歩いて5分のところにある。

▽アンデルセン Hans Christian Andersen


やたらに多い肖像写真のひとつ、左は保存されている界隈、博物館横の通り

私の子供のころは、西洋の童話より、桃太郎や金太郎、夏の怪談話がメインで、アンデルセンといえば「アリとキリギリス」や「みにくいアヒルの子」、「裸の王様」、「マッチ売りの少女」ぐらいか、グリム童話とごっちゃになって答えられない。しかし館内を一巡してひとりの文学者の博物館としては最大規模ではないだろうか、じっくり学習しつつ見学すれば数日かかる。島崎藤村や夏目漱石、司馬遼太郎らの記念館と比較にならない展示量である。靴屋の父と洗濯女の子としてオーデンセに1805年生まれたアンデルセン日本に移し替えると、江戸中期の浪速に生まれたわらじ履物屋の子、貧しいわけだ。欧州でも工商は下層民で人口の半数を占めていたが、観察眼と貧富の生まれは関係がない。
友人への手紙で次のように書いている。「わたしは水のようなもの、すべてがわたしを動かせ、すべてを鏡のように映す」。“Jeg er som enVand, Alt bevger mig, Alt afspeiler sig I mig”こんな目で見られたら立ちすくんでしまう。わが国には「明止水鏡」という禅的な語がある。自我の精神統一、心眼、宮本武蔵の極意を思い起こすのだが、アンデルセンの言葉は好奇心が根底にあるのが明止水鏡とちがうところか。創作童話の父・アンデルセンは今の小生の歳で亡くなった。当時の子供生存率は60%と説明文にあったので長生きである。独身だった。戦争に明け暮れナポレオン戦争で1813年国家破産になったデンマークは、ノルウェー領土を失った。同時に産業革命による新技術、新産業が勃興し、階級制がくずれる目まぐるしい時代に生きた。

世界各国で出版されたアンデルセン著作を国別に集めた部屋があり、著名な挿絵入りの初版や古い奇観本のガラス・ケースに尾崎紅葉訳の版画本がありました。『二人むく助』原題は「小クラウスと大クラウス」、明治24年とある。

15歳のソプラノ歌手にせっせとラブレターを書いたが、彼女は一度も返信を書かなかったという。実のらぬ恋の傷みを一生抱いて生きたロンリーマン。ウーム、「マディソン橋」の中世版みたいだな。次々恋人を取り換え、ワイフを取り換える男は心してアンデルセンを直訳で読むべしです。

▽風邪を引いた
一巡して外に出ようと思ったら雨だ。出掛ける時からうすら寒い日でやたらクシャミがでていたので形成わるい。売店にアンデルセンの童話モチーフを刷り込んだ回転ケーキ台が700クローネ、円高の折から1万円ちょっとである。大きなベアリング3個で回せるようにしたプラスチック製だが、割安感があるのであれ下さいとカウンターへ。貰った箱と栞には英語と中国語が書かれていた。かの国は文豪のショップまで浸透しておりましたか。コーヒを前に待つこと10分、雨が止んだのできたのでアンデルセン公園から保存されている幼少時代の家へ。ぞくっと寒気がするので、早めに温かい夕食を行き当たりばったりのメキシカン料理店で。テキラをショットしてステーキとサラダで精気をつけたが完全に風邪を引いた。
博物館になっている幼少時代の家(二軒屋の右側)と靴屋アンデルセンの看板。

8−9−10日目●ニーボルグへもどる
▽ケルテミンデKerteminde
オーデンセで一泊した翌朝、風邪の具合はそう悪くない。サンダルとショーツ、Tシャツ姿を靴とジーンズ、長そでシャツに替えて車に座る。回り道をしてケルテミンデという小さな港町へ、家内はデンマークの田園風景が殊にお気に入りで幹線道ではない道をゆっくり走るのが好きだ。開ける海、大空に流れる夏の雲、360度見渡す限りの穀倉地帯を、点と線の森が仕切り分けしている。家内はこの国の地方風景を「よく営まれた社会」という言葉で褒めちぎる。

デンマークの農業補助がどのくらいか知らないが、この規模なら悠にEU規制内の補助金で競争力がある。だからEU加盟で自国産業がダメージを蒙る分野は少ない。翻ってノルウェーの場合は、デンマークやスウェーデンなみの大規模農場が出来るのは、南東部やの一部だけで大半は岩山を開墾し斜面の零細家族農家である。補助金漬けで農村文化風景が曠野・荒れ山にならないよう維持している。EUに加盟すればノルウェーの農家の半分は壊滅的打撃を受けるという目に見える帰結が加盟反対の一因である。

追っかけてくる車を先に譲り譲り、地方によって微妙に風土の異なる風景を家内は堪能して飽きることがない。気分を害してはいけないので、わたしも大げさにつきあう。ほかにやり方がないではないか。ケルテミンデへ大回りして「よく営まれた社会」の風景と小ぎれいな街を散策、さらにこのフュィン島(Fyn)東南にある半島の岬にドライブ。曇って風の強い日だったが、突端を見に来るモノ好きは何人もいて、残念でもあり安心もする。

▽同じ部屋に落ち着く
ホテルに戻ると残り3泊を最初の日とおなじ部屋をあてがってもらう。窓からの海景色は遠くで小雨か、シェッラン島(Sjlland)島への橋が霞んで見えない。それでも真下の海岸は時折晴れるので家内はひと泳ぎに、風邪のわたしは大事をとってベッドで休む。ホテルの夕食ビュフェは毎日メニューが代る、しかも3日続けると割引がある。躊躇無く決める。数百人の教職員大会みたいな大人数の泊まり客はは会議用の食堂を使い、ビストロもあるので、レストランはゴタゴタしなくて快適だ。

窓の景色:桟橋に止り羽を乾かす鵜。海峡をわたる夕焼けの橋

▽スヴェンボルグSvendborg
翌日は雨と曇り、泳げないので南のスヴェンボルグへドライブ、この町は中心部に坂があり、商店街に人通りが多い。ジャンク類ではない良質の子供玩具の店を偶然見つけた。家内は喜び勇み3人の孫(3才と6ヶ月と、2ヶ月)にそれぞれプレゼントを買う。アイスランドの手製が多く、ジャンク玩具の大きな店ばかりになった昨今、珍重すべきニッシェ。家内は両手に抱え、わたしは大きな包みを小脇と肩に担いで駐車場まで運ぶ役。

▽ブルーグラスを奏でよう
弦楽器修理と中古などの小さな店にバンジョーがひとつあった。ピート。シーガー型とよばれるネックが2フレット長いタイプでフォーク仕様である。ブルーグラス奏者はつかわない。しかし凝った飾り模様を彫りこんだ金属銅があり、迷ったがブルーグラスを本文とする小生はGibson製に似たフラットマンドリン、を買う。ノルウェーに移住したとき、ブルーグラスのLPを全部−アール・スクラッグスやビル・モンロウなどの洋盤−と、楽器5弦バンジョーとフラットマンドリンを引っ越し荷物に入れたわたしである。それなのに離れ小屋に置いていたのを盗まれてしまった。以来30年、手にしていないのであるが、フラットマンドリンがいちばん容易、老後の愉しみにまたやるべえ!

▽ワルデマー宮殿は外だけ
スヴェンボルの対岸に小さな島トースィンゲTingeにワルデマー宮殿があるので、行ってみた。こういう古い離宮のような建造物ははどこへ行っても展示物は似たり寄ったりで、矢鱈と多く各部屋を廻らないと出られない城もある。オスロのアーケフス要塞を建設した王様でもあるが、特に歴史的興味のない人には食傷気味なので敷地内を散策する方が気が休まる。海岸が好きな伴侶は王侯貴族が泳いだであろう宮殿対面の小さなビーチを見に行くと海から上がった若い娘が震えながら、「はい、水がちょっと冷たい」とこともなげに答える。北欧の女性は口も体も強い。

▽一夜の通風
ホテルに帰ると家内が風邪を引いたようだ。私から移ったせいか。それとも昨日の寒い海に入ったためか。その夜である、持病の通風がズキズキ痛み出した。夜中に3度鎮痛消炎財を服用したら、翌朝はほとんど通常症状に回復していたのでホッとする。このところ痛風が出ないのをいいことに夕食のワインと、寝る前のワインを続けたのがいけなかった。注意しよう。

デンマークの旅11日目、ニーボルグを出発し、ホテルの窓から見える長い海橋を渡り、コペンハーゲンを素通りしてスウェーデンのマルモェへ、海橋・オーレスンド橋/リンクresundsbronを渡る。この橋の途中でスウェーデン領に入り、デンマークの旅はここでお終いです。そのあとオスロに数日寄って帰途につく。デンマークに入る前に5日間をオスロで過ごしているので、19日目にして我家に帰り着く。(了)






Pnorama Box制作委員会


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