明治29年、分家した吉村長慶は高野山に家墓を二カ所造営し、今回はその二つ目「信条碑墓所」を紹介しましょう。
●武内宿禰碑
(13)回に紹介した「宇宙大神霊」墓所から坂を降りた所を右の脇道に折れてすぐのところに長慶二つ目の墓所がある。明治29年に区画を確保したが、実際に碑を建てたのは明治43年から、「六朝柱石武内宿禰碑」と「長慶母堂志奈子納髪碑」を建立。宿禰碑は二つの台石の上に全部丸柱で構成され、地面から4mの高さがある。柱石の下に宿禰の墳墓と言われる奈良県御所市の宮山(みやま)古墳の土が埋められている。
なぜ長慶さんの墓所に武内宿禰なのか、碑文にも記されているが、遠祖だという。大和朝廷六朝に仕え、360余歳まで生きた長寿と霊能力があったとされる古代伝説上の人物である。ま、宿禰の子孫はゴマンといるわけで、宿禰の墓と称する寺社は全国各地にいくつあることやら。迷信陋習の打破を説く長慶さんがマユツバものの遠祖宿禰の碑をまず自身の墓所に祀る。
不合理ではあるが、長慶さんは宿禰−紀氏−出内左衛門尉教能(さえもんのじょうよしのり)−豊田志茂-から長慶へと繋がる武の系統を誇りにした。祖先を大切にすることにかけては長慶の右にでるものはいない。長慶の母想いはつとに知られ、母の生前墓「志奈子碑」を宿禰の碑の後ろに建て、3年後、母の還暦を祝って「志奈子橋」(コラム「幻の志奈子橋」参照)を架けた。
●信条碑/犬を従えた寿像
先回「大神霊墓所」には立教碑と古希の寿蔵が表裏に彫られていた。こちらは正面に信条を刻文し背面に木刀と帝国憲法をもつコート姿の長慶古希の寿像である。よく見ると襟に雲座の太陽を象ったバッジを付けていました。寿蔵の下に5匹のうずくまる犬が彫ってあるのは番犬だろう。
信条の刻文は佐保川内堤にある『宇宙教典』(高光る大御神と宇宙教典、3月6日参照)とよく似ている。台石に自身の宗教活動を記し、最後に「繁齢既に古希に達す。故に不時の死を覺悟し、予の信條則ち将来の宗憲文碑を此に建てる矣。昭和七年普門吉村長慶」と銘記。
この碑は昭和7年建立だが、昭和10年に等身自像舟形光背の余白を粗っぽい字で埋め尽くした。動的な大作。こういう美観を無視した型破りなところが長慶さんの真骨頂である。詳しい碑文解読は拙著をご覧くださいまし。
●宇宙菴トンビの寿像
隣にある三体目の古希の像は、うってかわった端正で様式化された傑作。トンビ姿で笏と刀を持つ。。に正面には「雨中菴長慶壽碑」とだけ刻まれ信条碑の像とは対照的にスッキリした碑である。上台に宇宙教典に似た宗憲が刻文されている。(了)