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吉村長慶(9)続・なら町、長慶モノ歩き
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〈 2010年 4月 3日 土曜日 )
●十輪院、石灯
元興寺塔跡から十輪院は遠くない。ちょっとバックして御霊神社の正門前を東に真っすぐ行けば二分でゆける。このあたりには徳称寺、金躰寺もありお間違いなきよう。十輪院の門を入るとすぐ右に春日型石灯が一基、角竿の正面に「照明燈」と彫られたのは長慶さんが昭和10年古希の祝いに寄進したもの、先にみた聖光寺の石灯に似てどちらもテライのない春日型、一方は丸竿で片方が角竿、刻文に違いはあるが安心してどこにでもおける石灯である。大正12年に長慶寺を開山し、みずから得度して住職となったが、長慶寺に居を写したのは昭和13年からでそれまでは薬師堂の本宅にすんでいた。したがって「現住薬師堂町」と刻まれている。 ●十輪院、大日如来 そこから境内の本堂の右奥にはいってゆくと黒御影のまる石に大日如来の浮き彫りが置かれている。徳融寺でみた如来座像とよく似ているが、こちらは華やかな装身具を身につけ、宝冠も華麗である。下半分以上に如来道が刻文されている。昭和14年、老体であったこの頃の長慶文字は往年のように整然とした書ではなく無手勝流みたいに奔放。読みづらいと思うので全文をここに記しておく。 萬事は即ち今日の現実なれ。如来如来(くるごとくきたるごとく)夏は涼を追いて 而して裸、冬は暖を求めて而して爐(いろり)。雨には即ち雨傘。晴れには即ち日傘。良之久有良之久為(らしくありらしくなせ)。富人は富人たる如く貧者に博愛を施し、労働者は労働者たる如く己を空にして而して働き、親は親たる如く而して慈(いつくし)む。子は子たる如く而して孝。農は犂鋤(れいじょ)執りて而して耕し、商は算盤を持して而して勤め、武人は干戈(かんか)を取りて而して勇。老者は杖付き、壮者は勤労す。相(為政者)は相たる如く 誠心を以て治を図り、民は民たる如く総和を以て国家に報す。要は即ち萬事無理無きに在り。 現代の感覚では「労働者は己を空にして働き」なんて箇所は人権無視が露骨で適応しないが、 滔々と流れる大河のような人生観。難しいことは言わない「らしく有り、らしく為せ」、人それぞれその本分を勤めよと説く。「不平等が天則也」という長慶哲理の延長上にあるくだけた如来道の教えである。無理のない平穏な世界を希求する長慶晩年の心境。長慶さんが夏、川原でゴロ石を値踏みしている様子を見た人の逸話がある。フンドシ一丁で突っ立って交渉していたそうです。 裏面に刻文があり、来歴はどこそこの碑文を見よと略してるが、この如来石を奉納する際に寄進した金額が記されている。戦前に「維持金壹百圓納済」といえば大金である。長慶さんが寄進した石造物は50、墓所の管理費も納めているが、金額を絶対に記さないポリシーでした。燈籠なら「永代油料納済」と彫る。ですから、奉納金○○○圓、○○町○○郎などと刻んだ献金碑や燈籠を、生き恥を曝すものと著書で非難しているのであるが、この一点だけ例外的に額を記している。ま、裏面の最後、フツーは気付かないといえです。表に富人は貧者に博愛を施せとあり、ご自身も慈善事業に寄附した。それで感謝状を貰ったこともあり、つい書き込んでしまったのだろう。 なお、殆ど同じ刻文の如来道碑が長慶寺山門前にあります。
●天神社 献木碑 ここからさほど離れいない天神社(高畑町1509)に足を伸ばそう。元大乗院の鎮守だった小さなヤシロです。ここに紅白の梅を寄進した献木碑があり、「不肖登……當神社を産土神とする者にて常に敬信する處を怠たらず 今回梅木貳株を寄付し其意を聊(ささやか)に表わすなり」と刻まれている。小さな境内ですからすぐわかります。登というのは長慶さんの幼名で、この神社が生まれた時に氏子に登録する産土社(うぶすなしゃ)であった。登少年は背丈は余り伸びなかったがスクスク健康に育ち、そのお礼に数え48歳になった宇宙菴長慶さんが梅の木を寄進した。一本は枯れたが白梅がまだ咲くらしい。遅咲きらしいから未だ咲いているかも。 天神社にはもう一つ長慶寄進の千度石があります。
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