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吉村長慶(8)なら町、長慶モノ歩き
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〈 2010年 3月 29日 月曜日 )
●まだある徳融寺
これまで佐保川ベリと徳融寺の長慶石像物を見てきた。徳融寺境内にはほかにもあります: @ 自身の墓標:38歳で分家して西吉村家を興した際の宣言とも言うべき長慶墓の第一号。 東奥の白壁前に立つ、背面に来歴碑が刻まれている。墓標の下に髪爪を埋める。 A 本堂前のソテツのあたりに「超命祈念移植」碑が残されている。ウラに宇宙長慶と刻名。 B 南側に長慶累代墓地があり、中程東の端に両親の戒名を刻んだ墓標がある。長慶13歳のとき父が他界、このとき長慶が少年名楢次郎の名で建てた。台石の刻文はその後長慶が書き加えたのですが、その後長慶さんが檀徒を離れたので無縁墓のようになっている。 まだとっておきの長慶モノがあるのですが、これらは拝観不可。わたしの本にて覧なれ(夏過ぎ出版予定) なお、正面にあるハス座の大きな吉村累代墓は本家「長蔵」を襲名した二代目が建てたもので長慶モノではありません。長蔵氏は鐘楼の大貢献者として、明治28年完成式で「一の鐘」を打つ名誉に浴した。この鐘楼の内面にギッシリ寄進者の名前が彫られていて、廃仏毀釈の時代でしたが春日大社神主の私名がある。それほど広範囲な人の熱意で完成した鐘と鐘楼、ここで「為鐘撞一」、つまり御歴々に先んじて初打ち、そりゃ嬉しいです。記念に建てたました。 ●聖光寺の石灯と寿蔵石 鳴川町の徳佑寺から北へ奈良駅の方へ少し戻って右に入るとここも鳴川町ですが、聖光寺というこじんまりした寺がある。門から春日型の燈籠が見えます。変哲もない伝統形式で長慶さんらしくないのですが、竿を見ると大きな字で「開基長慶寺宇宙菴」とある。昭和15年晩年の作。で、同年同寺の内庭に「寿蔵石」というのを置いた。内庭にあるので見られませんが、高さ1.6mくらいの単なる角石柱ですからおもしろいものではない。小さな写真を付けておく。寿像でなくて寿蔵に注目してください。その意味は石柱の下に長慶石像を「身代わり」といえば語弊があるが、埋め鎮めてあるということ。自像を埋めた長慶モノは十三塔が他所にふたつありますが、単なる石柱の下に像を蔵しているのはここだけ。亡くなる二年前ですから作意はわかるが、なぜ突然聖光寺なのだろう。いまとなっては判明しない。 ●御霊神社、戎大黒夫婦の大石 道が鍵状に折れるがそのまま東へ行くと薬師堂町にでて角に「御霊神社」ずんずん入って南東の角に「戎大黒」がある。大きいです。この石は自宅の地尻からでたものであると、裏面にほってあります。尻とは端っこ、敷地の隅のことで人の尻ではない。おっと、それくらいは見当つきますわな,失礼。右写真の裏面の文字は石工・新谷信正がシッカリ彫っていて読みやすい。試してください。居宅の地尻もと興寺の尼寺がったところ、基礎石のひとつだろうと言われている。晩年の作ばかりで恐縮ですが、78才から夫婦和楽を説くようになりまして、老いた夫婦の戎大黒や夫婦大黒を立て続けに創っています。その左の白壁に沿って「五葉松」を献じた石碑があり、宇宙長慶雑誌と銘記されている。献木した松は枯れてなくなった。生物死すとも石碑は残る、というわけです。 ●元興寺跡の道標と「三山呑倉入口」道標 御霊神社を西側の横口から出て南、駅の方角へ向かうと元興寺の塔跡へ入る横道の角に「元興」の道標がたっている。現在世界文化遺産になっている元興寺はここから行けませんが、昔は通じていたのでしょう、当時のままたっています。大きくて立派。その横道を入って中門に入る手前右に,民家の前ですが、「三山呑み倉入口 倉主宇宙菴」と刻んだ細長い道標がある。このところに長慶さんの説法教室(講堂という)のあったのでその位置にいまも立っているのです。お酒をたしなまない長慶さんが付けた名前、意味は三山を呑むほど大きい倉持ち。大言壮語というか気宇壮大というか、おそれいります。昔と一変して、現在この道標後ろにお住まいのかたは長慶さんとなんら関係無し、お邪魔しちゃ行けません。 このあと十輪院が近いのですが,次回にまわします。
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