安達正興のハード@コラム
Masaoki Adachi/安達正興


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吉村長慶(7)Tシャツの瞑想如来
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〈 2010年 3月 15日 月曜日 )


●「太陽と地球と三日月を配した如来座像」
奈良間まち鳴川町、徳融寺の中門を入ると正面にこの大日如来がある。これと前回述べた「釈迦と基督を呼び覚ます長慶」が両面になっている。
 「大日如来座像」は、如来が柔和忍辱の衣をなびかせハスに鎮座、右上に雲の上から太陽が顔を出してて如来を照らし、如来の左側に地球と三日月が浮かんでいる。よく見てください,地球には大陸と海洋がうっすらと肉彫りされていています。賛文に:

 真理が神、真理は太陽から来る、
 拝まぬ偶像に祟りなし、呵々長慶


とある。「拝まなかったら祟らないよ、アッハッハ長慶」とはこれいかに。では、この如来像は拝まないようにと造って置いたことになり、お寺さんとしてはありがたくない戯れ句だ。
しかしです、このTシャツを着て目を閉じた若い女性とおぼしき如来さまは珍しい。実に愛らしく良いお顔でいらっしゃる。



迷信陋習の打破を説く長慶は、機会あるごとに「神仏にムリな御利益を願うな。願わなければ神仏を恨む事もないのだ」「寺や神社が祈祷料を取るなどもってのほか」「病気になれば医者に行け」と説法する。然り正論である。こういうストレートな物言いを相手おかまいなしに論駁するのが独立自尊のひと・長慶のスゴさである。それ故、既成の宗教界から煙たがられ、政界・学会から疎んじられ、郷土の正史からは無視される結果になった。長慶石像仏は地方文化財にすら一点たりも無いのである。

さて、徳融寺ではこのような主張を境内でやられては迷惑千万だが、現在撤去されていないどころか一等場所に置かれているのは、いまも健在の十五世阿波谷俊宏師が、長慶のよき理解者であり敬意を払っておられるからにちがいない。逆にいえば長慶が制作した石造物の行く末は、所有する法人あるいは個人にかかっていると言える。

徳融寺の大日如来像石碑について。讚に彫られた長慶の辛辣な戯れ句に気をとられ、つい柔和な微笑みを含んだ如来の美しさを見逃しがちである。最初に拝見したときは伝重郎の彫りとタカをくくっていた。なにしろワタシは百以上の長慶者モノを各地に訪ねてぜーんぶ見てきたので、タダの石と見るクセがついておりますな。それに小生はクリスチャンでして、佛像を有難いとおもったこともないし、神社で拝んだこともない。しかし作品の良し悪しは見ますよ。

帰国にさいし、阿波谷師にお礼かたがたご挨拶に伺い帰り際、見納めに目をやると、オットこれは美しい。「伝重郎さん、やりましたね。よかったね」と、おもわず呟く。風が浜辺の砂にほのかな模様を浮き出すように、平らな石面から浮き出る如来は、実に軽やか、柔らかい秋のこぼれ日のゆらぎに天衣がほんとうに舞っているように見える。ヌ呵々長慶Uの賛など、もはやどうでもよろしい。可憐な如来はまぶたを閉じ瞑想する。

モノを創る人間には一点、たった一点でもいい、これで自分の一生もムダではなかったと思える作品があるものです。新谷信正・重郎さんにあってはこの一点がそうだ。これを彫った時は既に六十を過ぎていただろう。ノミ一でここまで辿り着いた年月は長かったが「遂にやりましたね」。リキまず、ムダのない彫り、長慶に付き従った石の彫り師・新谷信正の信仰を初めて見た思いがした。





Pnorama Box制作委員会

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