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吉村長慶(4)高光る大御神と宇宙教典
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〈 2010年 3月 6日 土曜日 )
連載2回目の「下長慶橋」から上流、堤の護岸壁に目をやると横一。くらいの石板が二枚嵌め込まれているのが見える。一枚はレリーフで人物が数体彫られている。もう一枚は漢文が刻まれた碑文であるが、橋の上から何が書かれているか、河川敷に下りるの遠回りして長靴がいるので、双眼鏡があればよい。
●【三聖人浮き彫り】 石碑の右上に雲の上に光輝く太陽と左下に三聖人がレリーフされている。その間に少し荒っぽい文字で、 喝汝(カツなんじ)及汝等信徒よ 此高光大御神(このたかびかるおおみかみ)に合掌禮拜せよ 長慶 宇宙菴吉村長慶 自刻 と刻まれている。実はこれを読める人って滅多にいないんだわ。4行目の上の字を「氏」か「民」かと何ヶ月も悩み、図書館で書体字典探しても見つからない。長慶自筆の書類を読み解いてるうちに同じ字が出てくるのでやっと「此」とわかったのです。嬉しかったです。 長慶さんに汝等と呼ばれた世界の三聖人、左からキリスト,孔子、仏陀がその高きに光る神に向かって、礼拝しているモチーフである。長慶さんが示すキリストはいつも十字架を背負っていて、これは人が見てすぐ判るように磔の像で表したので、罪のあがない、受難としての意味は特にない。西洋の宗教を代表する開祖という捉え方である。欧米と中国とアジアで代表される世界を表している。長慶石碑にはこれとよく似たモチーフがたくさんあって、高光る大御神、太陽、如来宝珠、如来、天照皇大神宮、京都嵯峨の別宅に神宮を置いたので嵯峨大神宮、など神仏習合、本地垂迹が混ざり合いいろいろだが、 「神仏森羅万象を統一する真理はひとつ、日の光から天地自然の 真理が生まれる」という宗教観が根本にうかがえる。その真理である天照太陽神に世界の宗教を統一しようと、長慶さんが仲介するわけです。世界の教祖に雲座の太陽を掲げMediatorたらんとした。そういう筋彫りやレリーフを数えきれないくらいたくさん造っています。 ●【宇宙教典】 碑文の石版は「宇宙教典」と題され、長慶が唱導する宇宙教、あるいは同じ意味で仏教的に如来道と称せられる教えのエッセンスが書かれている。訓読しましょう。 宇宙教典 夫レ天地萬有者(ハ)悉ク不平等ヲ以テ原則ト為シ 而シテ其レヲ主宰スル也 日有リテ輪在ル 違(タガ)ワザル焉(ヤ) 即チ宇宙絶對ノ神髄也 是ニ由(モトヅ)キテ吾ハ宇宙ノ教體ヲ開創スルヲ得ム 此ノ神髄ヲ善用スルコソ人ノ道ナランヤ 常ニ誠心ヲ以テ報国ス 本教唯一ノ義諦者(義に悟るもの)也 宇宙菴吉村長慶 長慶さんは「不自由不平等が天則なり」とよく言います。格差社会はあたりまえだ、というのです。恐ろしくストレートで取りつく島もない感じの人です。福慶應義塾に学びで沢諭吉の謦咳に接しているのですが,猛烈に反撥,どうも自ら退学したようなのです。長慶後の人生で諭吉翁の教えに逆らってるな,と思われる言動が多々あり実におもしろい。 さてこの作品の出来映えは悪くないのだが、河岸工事のたびに移され、増水時には濁流に洗われる。実際もとの「下長慶橋」は前にも述べたように現在地から西にちょうど碑文の位置からすぐ近くに架けられていた。橋のたもとから碑文とレリーフを覗き込めるようになっていたのである。一番上の写真をよく見ると,宇宙教典の上を横に花崗岩の横石が残されているのがみえますね。あれが元の石橋の敷き板だったのです。 ●なぜ橋を造ったか、通説 佐保川の二つの木橋を石橋に建て替え、開発が進む佐保村に利便をもたらした篤志家、インフラ整備に貢献した社会事業家であったと、橋にお世話になったわたしは小さい頃から無意識にそう思い込んでいた。ところが郷土史家の間では、「長慶橋、下長慶橋をなぜ造ったかというと、自分の墓地や長慶寺が佐保山にあるものですから、そこへ行く道に橋を架けたのです」(河野嘉明)という見解が通説になっている。 なるほど年代から判断すると橋の完成は長慶寺を計画した大正十一年の翌年、十二年に二つの石橋と長慶寺がほぼ同時に完成した。長慶寺はおなじ十二年に長慶さんが得度をすませ僧籍に入ってから法律上公式にに融通念仏宗の末寺として登録され開基した。佐保川内堤に設置したこれら三聖人合掌の浮き彫りと、宇宙教の教えを彫った石板は大正十一年の作である。すべてツジツマが合っているのですね。 ●通説に補足する 下長慶橋建設のモチベーションは指摘のとおりだが、長慶橋に関してはならまちから長慶寺への途上にあるものの、電車や汽車で奈良を奈良を訪れる観光客は通らない。したがって教義の石碑もない。私は補足したいことがある。建設のキッカケは長く市会議員を努めてきた長慶さんが、市が開発が期待される佐保村(まだ奈良まちに編入されていなかった)への道路整備に伴って新しい橋の計画があることを聞き、「ではワシが石橋を造ってあげよう」 と即決、資金を出したのが始まりである。 それにしても強烈な個性だ。当時あった佐保村への木橋を佐保山興福院にある吉村家の墓地と、その近くに建てた長慶寺へのいわば参道の意味合いをもつ石橋に建て替え、長慶の名を冠したのですから。爽快にやりたいことをやる長慶さんが、寄進した橋から見える所に宣布の石碑を置くのは長慶自然の行動でしょう? もちろん佐保川を渡る両橋が市の交通インフラに貢献したことは厳然たる事実であって、動機が私的であっても社会的貢献が減るわけではありません。。
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